< 注意 >
この話には痛い描写が含まれています。 烏賊同文。 ─ 異種遭遇 ─ 「The Unseen」
書いたの.ナーグル
「こちらエヴァンゲリオン。通信兵、山岸マユミです。連絡お願いしま…す。 誰か、誰か。お願い、返事してください!」 彼女らしくない強い口調でマユミは叫んだ。 しかし、ボリュームと感度を最大にした通信端末からは、拾ったノイズの放つ耳障りな音以外何も聞こえては来ない。きつく唇を噛むと、日本人形のように艶やかで癖のない長い髪の毛をかきむしった。 「いやぁ、いやです。誰か、誰でも良いから、誰か…」 何も言わないコンソールに額を押しつけ、マユミは呻くように呟いた。焦燥が彼女の心を焼き、彼女の体が震えるたびに、熱い滴が頬を伝い、口元の黒子の横を流れ落ちた。 「うっ、ううっ。いや、いや。みんな、返事して。私を1人にしないで下さい」 眼鏡の奥の、気弱な瞳は兎のように赤くなっている。痛々しく30回目に当たる視線を時計に向けた。既に同僚達からの連絡が途絶えて1時間以上が経過している。ネルフ船内が広すぎて捜索に時間が掛かると言うこともあるだろう。しかし、連絡が途絶えるというのはあって良い話ではない。 『これから研究室に入ります』 『居住区にはいるわ。マユミ、記録して』 ノイズ混じりの通信を最後にアスカとヒカリ、レイとマナそれぞれが連絡を絶った。いずれも凄腕の勇士、たとえ破れたとしても何事か連絡があってしかるべきなのに。 しかし、マユミが良く通る声でどんなに呼びかけても何の返事もなかった。通信機の故障などではない。通常なら、何らかの反応が絶対あるはずのマユミが持つ精神感応にも返事がないのだ。機械で増幅されたその能力は、断末魔の呻きでさえも捉えるはず。いや、全く反応がないわけではない。 それは言葉にならない原始的な精神波の閃きだった。強く鋭い刺すような叫び。身を引き裂かれるような、哀切極まる魂の慟哭。 『助けてっ!』 『いやっ!』 あまりにも強く激しい叫びに、マユミの体は刺されたように硬直した。強い悲哀に心が砕けてしまう。そんな幻視が見えたような気さえもする。柔らかく、肉感的な体が止められない恐怖で震える。 強すぎる感情の嵐に翻弄され、何が起こったのかと彼女は戸惑い恐れた。こんな強い思いを体験したのは、彼女がテレパスとして覚醒するきっかけとなった事件以来だ。 「娘にだけは、お願い!」 台所の床の冷たい感触。母の泣き声。母のすぐ近くに、酷く殴られて後ろ手に縛られたた男の人が倒れている。もはや面影も思い出すことが出来ない父親。 ぼんやりと眼前の光景をマユミは見つめている。腕には三日前の誕生日に、両親に買ってもらったぬいぐるみ。その柔らかさと温もりが奇妙に心に突き刺さる。人形のプラスチック製の瞳には、眼前の光景が現実感のない映画のように映っていた。 『………なら抵抗するな』 下半身を剥き出しにした覆面の男が、奇妙に押し殺した声で母に告げる。声がアヒルの鳴き声みたいに聞こえるのは、ヘリウムガスを事前に吸い込むか何かしたからだろうか。こんな時でなければ、滑稽だと笑いの一つも上げることが出来ただろうに。 男の言葉に、まず父を、それから自分の顔を見つめて母は呻き声を上げる。殺された方がましだ、そんな風にも見えた。ゴクリと唾を飲む音が生々しく聞こえる。 「う、ううっ。 あ、あああ…。あなた、マユミ。見ないで、お願い。ねぇ、見ないで」 観念したのか、母は堅く目と閉じて脱力する。あの時の母は、何を思っていたのだろう。 すすり泣く母親の上着をまくり上げ、ブラジャーを男はむしり取る。豊満とは言えないが形の良い乳房がこぼれる。右手にはギラギラと光るナイフを持っていたため、左手だけで下からすくい上げるように胸に指を沿わせる。おぞましい感触に、母は関節が白くなるほど強く手を握りしめた。 (マユミ、マユミ!) その瞬間、母は堅く口を食いしばっていたはずなのに、その悲痛な声をマユミは聞いたような気がした。 そして数分後、途切れ途切れにまた心の声が聞こえる。 先ほどのように強烈ではないが、それでも強い声だ。 (シンジ、シンジ…) その声がする度に、様々な理由からマユミは顔を赤く染めて身を震わせた。その心の叫びは、さほど強くない精神障壁を突き抜けてマユミ自身にまで影響を及ぼしてしまう。つまり、感覚の共有だ。仲間達が愛撫される感触が、現実感を持った刺激となって体をなぞる。 体を細かく震わせながら、マユミは自分がテレパスであることを呪った。テレパスとして覚醒する切欠となった事件を呪った。 「あ、アスカさん、綾波さん、マナ、洞木さん。何が、何が…どうなったの? どうなってるんですか? この、この精神波は…」 不完全なマユミの能力は完全に感覚を共有するわけではないが、それ故に自分で能力を制御することが出来ないのだ。こらえようとしてもボートを翻弄する波のような痺れはやまない。真夏日に全力疾走でもしたように全身から汗を流れる。 何が起こったのか、本当のところマユミにもわかっている。 体を震わせるこの感覚は、久しく覚えのない官能の疼きだ。むずがゆい感覚が全身を虫のように這いずり回り、下腹が熱くなっていく。体が火照り、喉が奇妙に渇いていく。 (なに、なにしてるの…? アスカさん達、誰かと。まさか、暴行を、受けてるの? あぁ) 甘い吐息を漏らし、悪魔に魅入られたように、無意識の動作で右腕が胸に伸びそうになる。柔らかくたっぷりとした稜線をきつく、形が変わるほど揉みしだき、痺れるような快楽の奔流に身を委ねたい…。 「だ、だめっ!」 寸前になって右腕を左腕で押さえつけた。ぶるぶると震える腕を、マユミは砂漠の飛び魚を見るような目で、つまり決してあり得ない物を見るような目をして見る。 「………い…や」 普段ならそんなことは決してないが、異様な状況に戸惑っているのか、それとも4人分の精神波に囚われてしまったのか。見開かれた大きな瞳からは恐怖しか読みとれない。 「ん、んんっ…。私は、こんな、の………あ、はああっ!」 突然、マユミは体を突っぱねると、苦痛を堪えるように体をよじった。上気した息が口から漏れ、切ない思いに震えていた右腕がきつく、爪が食い込むほど強く握りしめられる。4人が同時に絶頂を迎えたことで、波長が偶然に揃ったのか今までで最高の精神波がマユミを襲ったのだ。 「あああっ! 綾波さん! マナ!」 堪えきれず反射的に左腕がはね動き、豊かな黒髪の中に埋もれていて外から見えなかった金属の装身具 ―― 精神波増幅器であるヘッドセット ―― を引きむしった。形状記憶合金のヘッドセットがマユミの手の中でゆがみ、次の瞬間、投げ飛ばされて床の上で渇いた音を立てる。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はっ、はぁ…ん」 途端に、断末魔のような4人の絶頂の叫びがとぎれた。いや、届いていないわけではないがノイズと区別が付かないくらいにその声が小さくなっている。急速に醒めていく自身の体にほっと溜息をつき、椅子にすがるように崩れ落ちてマユミは涙を流した。 「あ、綾波さぁ…ん。マナ、マナぁ…。アスカさん、アスカさん、ヒカリさん」 蛇口が壊れでもしたように涙が溢れて止まらない。 体の残る疼きが現実を突きつける。アスカ達だけではない、マナ達も…捕まったのだ。 遭難した宇宙船に巣くう何者かに。 そして、その何者かに良いように嬲られてしまっている。当たり前の話だが彼女達にとってそれは、ある意味殺されるよりも辛い生き地獄だ。 (どうしよう…。どうしたらいいの? 私、どうすれば) こんな時、どうすればいいのか。 嫌と言うほど訓練中に、授業中に教えられたので一応はわかっている。特に命令がなければ、敵と自身との戦力その他を比較し、救出の可能性が高ければ救助に向かわなければならない。 しかし、明らかにマユミと謎の敵性体とではその戦力は絶望的なまでに開きがある。完全装備のアスカ達でさえ勝てなかった相手だ。となると、マユミが取るべき手段は一つ。貴重な情報を確実に後方司令部に伝達することになる。しかし、通信妨害がされている現在、情報を伝えるためにはマユミ自身が後方司令部に出向かないといけない。 (でも、それはつまり、アスカさん達を見捨てると言うこと) 本当に目の前が暗くなるような絶望にマユミは吐き気を覚えた。正直なところ、敵性体に対する恐怖は全身を押しつぶしそうなほどに強い。直ちに接続した回廊を切断し、エンジンを全開にして第三新東京市に帰りたい。 (帰りたい…。このまま布団をかぶって眠ってしまいたい。逃げ出したいよ。 でも、でも、できない。アスカさん達を見捨てるなんて、友達を見捨てて逃げるなんて…できない) 謎の存在の恐怖よりも…友を見捨てること、自分自身の信念を裏切ることの方がマユミは恐ろしかった。自分自身を、マユミをマユミたらしめている信念を裏切ることが恐ろしかった。 なにより、自分で何かを決めないといけないことが恐ろしかった。 (わからない、わからないわ。私、どうしたらいいの? 今まで、何をするにしてもいつも誰かが導いてくれた。だから、わからない、わからないの…。自分の意志で何かをしても、いつもそれは人を傷つけたり、そんなことばっかりだった。 アスカさん、こんな時あなたならどうしますか? 綾波さん、マナ、洞木さん…。戦うの? でも、私は戦えない。弱いから。だからきっと、私のことはいいから逃げなさいって、そう言うよね。 じゃあ、逃げるの? それも…ダメ。シンジさんと、約束したから。もう、逃げないって。怖いけど、逃げるなんて、そんなこと出来ない) そのままだと、思考の無限ループに陥ってしまいそうになる。 しかし、時は無限ではない。有限なのだ。 運命の神は時として皮肉な形で願いを叶える。迷い悩むマユミに道を示してあげる。運命の神は女性なので、女性に対しては辛辣だ。 最悪の道しるべを示してしまった。 ズガンッ! 突然、艦全体を揺らす凄まじい轟音が響き渡った。直後、照明が赤い点滅の繰り返しに変わり、メインスクリーンの大部分に警告の文字 「なんなの!?」 早鐘のように鳴る胸を押さえ、慌てながらメインスクリーンをのぞき込んだ。直後、マユミは言葉を失った。 スクリーンにはエヴァンゲリオンとネルフ。そして2つの船を繋ぐ回廊が簡略化されたCGで描かれている。そこまでは問題ない。しかし…。 ネルフとエヴァンゲリオンを結ぶ回廊は、今現在一時的に遮断されている。アスカ達がネルフに進入した後、万一を考えて隔壁が降りているのだ。厚さ2cmの合成樹脂と合金製の扉が空気一分子も逃さず塞き止めているのだ。 「う、嘘…。隔壁が」 しかし、マユミの瞳に映るのはなにか強力な力でこじ開けられ、隔壁が突破されたことを記す警告色だった。破線になった隔壁を貫く矢印のアイコンが、無慈悲に点滅を繰り返していた。 同時に、動体センサーが痛いほど騒がしい警告をまき散らしていた。 それが指し示す事柄はただ一つ。 アスカ達以外の何者かが、強引にエヴァンゲリオンに乗り込んできたのだ。金属の扉を力ずくでこじ開け、強力な戦士であるアスカ達を捕らえるほどの何者かが…。先ほどまでの火照りが一気に冷めたマユミは、恐怖で全身の毛を逆立たせた。 「MAGI、直ちに艦内全隔壁閉鎖!」 『了解。…審議結果、賛成3で隔壁閉鎖を実行しました』 虚空に向かってのマユミの叫びに、どこからともなく棒読み口調で答える声が聞こえる。宇宙船エヴァンゲリオンの全てを統括するコンピューター、MAGIのアナウンスだ。 僅かに遅れて、エヴァンゲリオン艦内の至る所で重く分厚い隔壁が船の通路を寸断していく。ほどなく、エアロックとマユミのいるコクピットとの間は5つの隔壁で遮断された。しかし、これで安心できるわけではない。 「監視システムの感度を最大に! それから警戒レベルも! 認識信号を出していない人間はレベル5で攻撃してください!」 『…審議中。賛成2、条件付き賛成1で監視システム、および警戒レベルを最大にしました。迎撃、開始します』 完璧とは言えないが、コクピットと居住区はエアロックから遮断される。マユミは重い溜息を吐きかけて…寸前でそれを飲み込んだ。 ダキュン! ダキュン! 迎撃を命じた側から、腹に響くような音が一定のリズムを刻むのが聞こえる。 侵入者に対する警戒システムが作動しているのだ。まともに当たれば、人間を殺傷することも可能な自動熱線砲が破壊の嵐をまき散らしている。警戒レベルを最大にしているため、ネルフの乗組員と一定以上の階級の持ち主以外は無条件で攻撃するのだが、当然、それ以外の動く物は生物無生物を問わず攻撃される。 迎撃システムがあるのは、エアロックとエヴァンゲリオンを縦断する主通路。 何者かが…言うまでもなく謎の生物が進入してきたのだ。つまり、謎の生物とマユミは、隔壁数枚を隔てて数十メートルほどの位置にいると言うことになる。 「MAGI、侵入者の数は!? その正体は!?」 『数は6体。正体…不明。データベースにアクセスしましたが、該当する生物は存在しません。推測レベルを下げますか? 現在の推測レベルは80です』 「推測レベルを60に。同時に最も有効な対処法を算出して下さい」 一瞬の沈黙の後、再びMAGIは返事をする。 『推測される生物の正体で合致する物が8ありました。全て確認しますか?』 「最も可能性の高いのだけで…十分です」 『了解。最も可能性が高い生物 ―― 可能性58.5% ホモ・エレクトゥス。 霊長類人科。平たく言えば人間です。 続いてある種の無脊椎動物、特に節足動物が該当します』 「に、人間…ですって? その次が節足動物? 昆虫人間とか言うつもりなんですか?」 脳裏に浮かぶのは、数百年前に放送されたというテレビ番組の主人公の姿。 戸惑うマユミに、感情を感じさせない声でMAGIは答える。MAGI自身もまるで戸惑っているように途切れ途切れに。 『あるいは。断定するには、情報が、あまりにも、少なすぎます。より詳しい、推測を必要と、する場合は、新規で、情報の入力をお願いします』 「じゃ、じゃあ! 対策は何か無いんですか!?」 『………現時点では情報が少なすぎます。現有兵器による迎撃が単純ですが、最も高い数値を示しています』 「武器による迎撃って、私の運動神経は知ってるでしょう!? 実技は水泳以外ほとんど赤天ギリギリだったんですよ。アスカさん達ならともかく、私にどうしろって言うんですか」 『…山岸曹長単独での迎撃…成功確率 0.25%です。反対3で否決されました。 予測修正します。このまま熱線砲で迎撃に賭けた方がいくらかましのようです。迎撃確率3.9%。条件付き賛成1、保留1、反対1』 もう喋るな! と言わんばかりにコンソールを睨み、頭を振ると、マユミは音がするほど歯を噛みしめた。 先ほどの物とは違う、胃がむかつくような冷や汗が全身をぐっしょりと濡らし、狂ったようにスタッカートを繰り返す熱線砲のステータス画面に縋るような目を向けた。 「ああ、なんてことなの」 マユミは赤い棒グラフが伸びていくステータス画面を見守る。その棒グラフが表しているのは、熱線砲の銃身が持つ発熱量である。これが限界を超えたとき、熱線砲はオーバーヒートを起こして使用できなくなるのだ。 マユミの期待とは裏腹に、敵性体の行動は衰える気配はないようだが。 ダキュン! ダキュン! 熱線砲の音は変わらず続く。 【ぐぉおおおおっ!!】 【きしゃぁぁおおおおっ!!】 【くりゅぁぁああっ!】 隔壁をいくつか突破されたのだろうか。今では謎の生物があげる、苦痛の叫びが耳に届く。 「こ、来ないで…。お願い、諦めて…ください」 虚ろな目をして、マユミはいつの間にか爪を噛みしめた。絶望と諦観の混じった表情は、どこか、艶めかしい。 ずっと前に無くなったはずの癖だが、どうしようもないところにまで追いつめられたとき、無意識の内によみがえる。治したくて仕方のないマユミの癖だ。ガリガリと囓り取られた爪の欠片が舌にチクチクと刺さる。しかし、マユミは爪を噛むことをやめようとしない。あの時のように。 『ああ、あおおっ。うぉ、ふぉおおっ』 獣のように呻きながら、男は腰を振っている。 太股の間に体を潜り込ませて腰を押しつけている男の動きに、仰向けに抑えられ、限界まで足を広げさせられた母の体がガクガクと揺れた。 「あ、あぅ。う、うううっ。ぁっ、いや、いやいやぁ」 堅く閉じられた口から呻き声が漏れ、目から止めどなく涙が溢れ続けている。ぐちゅぐちゅと泥遊びをしたときのような音が台所一杯に響き、そのたびに、父の体が痙攣するように震えた。 (お母さん、お母さん…) 何がどうなっているのか、幼いマユミにはわからない。ただ、聞こえないはずの父の声と、母の声からそれがとてつもなく嫌なことだと言うことはわかった。 (いじめないで、お母さんをいじめないで) 『愛してるんだ! うおっ、ほおおおおっ! 出すぞ、出すぞっ!』 「や、やだ! それはや、嫌です! お願い、それは、それだけは許して!」 指の跡が赤く残るほどに胸に指をめり込ませ、男は弓なりに体を反らせて呻き声を上げた。ガーガーと下卑た声。黒髪を振り乱した母の口から金切り声が溢れ、父の口から小さな呻き声が聞こえる。 『う、受け取れ! 俺の愛を! 俺の子を、生んでくれ』 「いや、やめて! ダメなの! ダメなの! 妊娠しちゃう! そんなのイヤぁ! あなた、あなた助けてぇ! ああ〜、あっ、ああっ! ぃいいいやぁぁぁ―――――っ!」 汗みずくになった母の体から目を離すことも出来ず、その場に座り込んだまま、マユミは爪を噛んでいた。 ほんの僅かな時間、マユミの意識は過去を彷徨っていた。親指に感じた鋭い痛みに顔をしかめる。指を伝う血の赤に、目が覚める思いだ。 「あ、こんな時にわたし…。まさか白昼夢だなんて」 言いかけてマユミは言葉を飲み込む。 何かがおかしい。 気がつくと、空気を奮わせる獣の叫びと熱線砲の銃声が聞こえなくなっていた。静寂がかえって耳に痛い。 「あ、なにが…」 『熱線砲は数体の敵性体を撃破したようです。侵入者は進路を変えました』 「引き返したんですか?」 目に見えて顔色を良くしたマユミの言葉に、MAGIは淀みなく応える。彼女の意図した物とは、少しばかり違う答えを。 『いえ、一時的に待避しただけと考えるべきでしょう。その証拠に、1体はまだ艦内に留まっています』 「え…? それって」 ちらりと目を向けると、熱線砲のステータスは限界を突破していることが確認できた。恐らく、銃身は自らの発する熱に耐えきれず、ショートしてしまっているだろう。その前に生物を撃退できたのは、僥倖と言うべきなのか。 『先ほどの隔壁閉鎖命令により、改めて通路には隔壁が下りています。つまり、エヴァンゲリオン艦内に生物が一体閉じこめられたわけです。 再び攻撃に移る可能性は97%を越えています。早急にこちらも準備を整えるべきです。予想再侵攻時間…情報が少なすぎて検討できません。が、1時間以内で再侵攻される可能性は極めて高いと推察されます。そして熱線砲は修理するまで使用できません』 「ど、どうしたら、いいの?」 『まず、万が一に備えてブラックホールエンジンをスリープモードにすることを提案します。これで最悪エンジンを破壊されても、超爆発することはありません。ただし、再稼働するまでの間、この艦は生命維持を除いて、最低レベルのエネルギーしか使用することが出来ません。ぶっちゃけた話、空気の循環と温度調節以外は何もしません』 ドアの開閉も手動です。と付け加えることも忘れない。 制作者の趣味がかいま見えた様な気がして、マユミは露骨に眉をひそめる。こいつ、分解してやろうかしら。 「それで、次はどうすれば良いんです?」 『山岸曹長の戦闘技術では、あまり意味がないかも知れませんが、全会一致で武装して敵性体の殲滅を提案します』 「武装? 武装っていっても、武器のある兵器庫は艦の後ろの方なんですけど、そこまで行かないといけないんですが」 『…敵性体の前を横切ることになりますし、センサーに捕らえきれてない敵性体に遭遇する可能性があります。反対2、保留1で否決されました。しかし、殲滅するためには武器をどこかで入手する必要があります』 「あの、一応聞きますけど…つまり、結局、どうしようもないって言いたいんですか?」 『はい。もしくはエアロックに誘い込むなどして外に排出するなど、できますか?』 出来るわけないでしょう。 なぜだろうか。彼女らしくない、コンソールに拳を叩き込みたくなる衝動に襲われる。喋っているのは所詮プログラムだから…だろうか。その言葉にはどうにも人事のようなよそよそしさが感じられて仕方がない。 (所詮、リツコさんが作ったプログラム…。正論だけ言って、相手のことなんか考えてくれないんです) それはともかく、心に引っかかっていることをマユミは尋ねる。 「私にそんなことが出来ると思いますか?」 『無理です』 「…武器の心当たりはないわけじゃないけど。置いてあるのは私の部屋なんです。兵器庫はともかく、居住区内の部屋までならどうですか?」 『検討中…。一時隔壁を開ける必要があるため、その際に敵性体に襲われる可能性があります。しかし、敵性体の能力を考察した結果、いずれ隔壁は破られる可能性が大です。賛成1、条件付き賛成1、棄権1で可決されました』 髪の毛をせせる指先が神経質に震える。MAGIが言っていることは、ある意味予想通りだったからだ。とは言え、それはそれで覚悟がいる話である。今マユミが持っているのは、無重力でも使うことが出来る無反動銃一丁のみ。人間相手ならともかく、隔壁をも突き破る謎の敵性体相手ではかなり心許ない。 「…でも、だからこそ武器を取りに行かないといけないんですよね」 『当然です』 ほんの十数メートルが無限の長さに思えてきた。 座っているにも関わらず、ふらふらと足下が定まらなくなる貧血特有の感覚に、マユミは本気で泣きたかった。自分から虎口に飛び込む兎というのは、きっと自分のような気持ちなのだろう。マユミの動揺を感じ取ったのか(勿論そんなことはないが)、MAGIは別の提案をする。 『…この場で緊急救命艇を使用することも出来ますが』 「みんなを見捨てろって言うんですか? 私だけ逃げ出せって」 『非情なようですが、他の隊員とは連絡を取ることすら出来ません。全員、既に死亡したと考えるべきなのでは。 先ほど、武器を入手して敵性体を迎撃と言いましたが、やはり被害を最低限に抑えるべきです。脱出しましょう』 静かにマユミは首を振った。 「できないわ。みんなを見捨てて、自分だけ逃げ出すなんて。嫌なの、そんなこと、するのも考えるのも」 『…理解できません』 「そうね。自分でも、馬鹿だって思うから。わかってるの。自分では助けけることも、逃げることもできない。助けに行かないといけないの。 自分だけ逃げても、私はみんながいてくれたからどうにかできたの。みんながいなくなったら、私みたいな何もできない人間は、どのみち生きていけないわ」 『それでも、脱出するべきだと思いますが』 前言撤回。意外に、自分のことを気にかけてくれてるのかも知れない。小さく自嘲気味に笑うと、マユミは立ち上がった。 汗で湿ったからだろうか、ぴったりとしたストッキングが足を引っ張る感じと、膝まであるタイトスカートが、足にまとわりつく感じが気に障る。濃い緑色の軍服が、束縛するように体を締め付けてくる。ネクタイは首に絡みつき、呼吸を阻害する。空調は快適に作動しているが、長袖の軍服はいかにも暑苦しい。映画の登場人物のように、横にスリットを入れた方がいいかも知れない。 今更ながら、プラグスーツを着ていれば良かったと思う。体の線が浮き出て恥ずかしいとか、胸が締め付けられて苦しいとか、些細なことにこだわらなければ良かった。 「逃げちゃダメなの。行かなくちゃ」 『つまり、武器を取りに行くだけではないのですね。惣流少尉達を助けに行く気なのですか? 助けられる確率は限りなくゼロに近いのですが。いえ、それ以前に彼女達が生存している可能性は…』 MAGIの言葉を無言の視線で遮る。それ以上は決して言わせない。言わせてはいけない。 「でも、行かなくちゃ。みんなはきっと待ってる。私にはわかるんです。みんな、みんな私よりずっと強い人達だから、きっとまだ生きていて、私が助けに来ることを待っています」 『死んだ方がましな状況かも知れませんよ』 「生きていれば…なんとかなります。みんな絶対諦めてはいないわ。 もういいです。隔壁を最低源解放してスリープモードに移行して下さい」 『御武運を』 踏み出した靴は、粘ついた音を立てて軟らかい肉を踏みつけた。 「………………っ!!」 きつく上着の袖を噛みしめ、マユミは必死になって叫び声を飲み込んだ。声を出してはいけない。聞きつけて敵がやってくる。大きく深く息を吸う。静かにゆっくり息を吐く。生臭い血の臭いに吐き気を催すが、必死に込み上げる熱い物をこらえた。 覚悟を決めて通路に出たマユミを出迎えたのは、床に横たわる数体の死体だった。勿論、人間ではない。 「こ、これが、敵性体」 一見したところ人間にそっくりだが、細部が著しく異なっている謎の生物の死体だ。蛸かイカにどこかにた感じのする瞼のない目をもつ頭、どっちに閉まるのかわからない円形の口吻と、そこから漏れる触手状の舌がいかにも不気味だ。 ガリガリにやせ細った人間に似た胴体と細長い四肢、人間にどこか似てるが明らかに形状と大きさの異なる性器を備えた、マユミが今まで見たことも聞いたこともない生物。 言うまでもなく、アスカ達を襲った、人間をベースに生まれ変わった寄生生物達だ。勿論、そんなことを知る由もないマユミはゴクリと唾を飲み込む。 「な、なるほど。確かに、人間とも節足動物ともつかないわ」 アスカの勇気を手に入れたいのか、彼女のように強がりを言い、横たわる生物の死体に目を向ける。直後、海産物にも似た生臭い臭いに鼻を押さえた。 「うぇ…。なに、もう腐敗してきてるんですか? 新種の類人猿か何かなのかしら?」 自分でも欠片も信じていないことを口走る。そんな単純な存在なわけがない。嫌悪を押し殺し、体液を流しきり、生きている気配を微塵も感じさせない死体をまじまじと観察する。どれが致命傷かわからないくらい全身に弾痕が残っていた。 「頭部への一撃が致命傷だったのかしら?」 カサリ。 「なに?」 何かをひっかくような音がして、反射的にそちらに目を向ける。一瞬影が闇の奥に消えていくのが見えたような気がした。瞬きをした次の瞬間、もう何も瞳には映らない。気のせいか…と、心臓が飛び出しそうだ。 「そこに…いるの?」 銃の安全装置が外れているのを確認し、じっと目を凝らして耳をすますがそれっきり物音一つしない。小首を傾げ、空耳かと判断する。汗でべたついた額を拭いながら、マユミは改めて通路の先に目を向けた。瞳を大きく見開く。 「なにかしら、これ」 床にどす黒い染みが広がっている。生物の流した体液とは違うようだが、しかし、明らかに生物に関係した何かの染みだ。側に跪き、子細にマユミは観察する。水飴にどこかよく似た、半透明の粘液だ。昔見た映画か何かのように、床を腐食しているわけでもなければ接着剤のような物でもないらしい。 粘液だまりに気を取られたマユミは、天井に張り付く影に気がつかない。瞼のない、ガラス玉のような眼球がマユミを映して鈍く光った。 「…なにかよくわからないけど、先に行かなくちゃ」 予想に反し、居住区へは何の妨害も遭遇もなくマユミは到達していた。動力が停止したため、半開きの状態になっている居住区の扉を前に、どうするべきなのか唇を舐めて思案する。 進入したのは6体。そして隔壁の前に倒れていた死体の数は5体だった。 6−5=1 残るは一体。簡単な引き算だ。手持ちの武器は基本装備と比べれば少々貧弱だが、それでも人間が相手だったらかなりの破壊力を持っていると言える。先ほど調べた限りでは、謎の生物は人間以上の防御力を持っていると言い難い。やたらしぶとそうではあったが。 (アスカが片づけ忘れたパルスライフル、あれじゃなくても、何とかなるかも知れないわ。 私が先に見つけて、先に撃てば…きっと) ぐっと拳を握りしめ、自分で自分を元気づける彼女は気づかない。背後の闇の中を、巨大な蜘蛛のような影が這い進んでいったことを。ゆっくりゆっくり…動体センサーが反応できない動きでゆっくりゆっくり。 ここまでは怖いほど順調だ…と、確認するようにマユミは何度も頷く。物静かで、あまり感情を表に出さない彼女だが、滅多に行わない小さな冒険に内心の興奮を隠せないようだ。 自室の扉の取っ手に指をかけ、全力で左にずらしていく。動力が供給されているときは空気圧ポンプで作動する扉だが、今は手で開けなければいけない。ふぅふぅと荒い息を吐く。汗が浮かび、首を伝って白いブラウスに染みた。 (扉を開けてからスリープモードにすれば良かったかしら?) それ以前に、きちんと軍規にあわせてプラグスーツを着ていれば良かったかとも思う。そうすれば常人の数倍の力を出すことが出来るのだから、片手でも扉を開けることが出来ただろう。 「あうぅ〜〜。今更遅いけど、やっぱり重い〜」 それでも元々開くように作られた扉なわけで。あまり大きく開けられたわけではないが、自分一人がくぐり抜けられる程度に扉は開いた。 「ふぅ。えっと、確かロッカーの中に置いておいたのよね」 首だけを部屋の中につっこみ、右、左と視線を動かす。 薄暗い非常灯が照らす室内は、こうして見るといかにも狭く、余計な不安を感じさせてしかたがない。元々、簡易寝台と小さな机が一つずつ置いてあるだけで一杯の部屋なのだ。宇宙船の、それも軍艦で私室があるだけで僥倖と思うべきだろう。 「よいしょ…きつっ」 足下に気を付けながら部屋の中に体を滑り込ませる。胸とお尻が少しきつい。もうちょっと開ければ良かったかなと思う。それはともかく、しばらくの格闘の末、何とか彼女は体を滑り込ませた。 ちらりと室内を見回す。2.5 × 3m 四方の部屋の中には、左脇にはシーツがわずかに乱れた簡易寝台、正面には小さな机が置いてある。机の上には卓上ライトと、読みかけの文庫本が数冊、手の平サイズの軍支給の携帯端末、そして隊員全員が写ったフォトスタンドが置いてある。 問題の銃が置いてあるのは、ベッド下のロッカーの中だ。 『あ〜片づけるのがめんどくさいわね。マユミ、ちょっと置かせて♪』 『アスカさん、…暴発、するかもしれないんですよ。きちんと、その、片づけないと』 『大丈夫大丈夫、滅多なことで暴発なんて起きないって。心配ならちゃんと弾倉外すし、安全装置もきちんといれとくってば』 以前の任務中、アスカはそう言ってパルスライフルを置いていった。 マユミは『軍規』とか『危険物』とかオロオロしながら片づけるべきだと言い、あるいは自分で片づけようとしたのだが、結局マナの暴走事件でシンジ達一同が負傷するという事件があり、さらにマユミにとってとてつもなくショッキングな出来事があったため、片づけることをずっと忘れていたのだ。弾が込められていたかどうかはわからないが、危険物を体の下に置いてよく眠れた物だ…と思う。 「それが幸いするんだから、世の中わかりませんけれどね」 ふっと思い出し笑いを浮かべ、マユミはベッドの脇にかがみ込んだ。もうちょっと過去の微笑ましい想い出に浸っていたかったが、アスカ達の今の状況を考えれば、時間はダイアモンドの粉以上に貴重なはずだ。 「急がないと」 ひざまずき、引き出しを開ける。中には長さ1メートルほどもある無骨な金属の固まりがバンドで固定されて収められていた。通称パルスライフル。正式名称は長ったらしいので省く。 改めて、こんな危険物の上で眠れたな、と思う。 グレネード装備型パルスライフル。通常弾頭以外に、グレネードを射出する能力がある。そしてマユミの記憶が確かなら、アスカは通常弾頭のマガジンは外したようだったが、グレネードの方は…わからない。今までとは違ったタイプの冷や汗が、また一滴流れた。 「ま、何はともあれ、とりあえず武器は確保できました」 ふぅっと、聞いているだけで緊張が飴のように溶けていきそうな溜息をついた。下腹に感じていた、緊張の重苦しい鈍痛が嘘のように消えていき、多少は不安が無くなる。 「……ついでだから、プラグスーツに着替えた方がいいかしら」 銃の隣の衣料品を見つめながらマユミは呟いた。滅多に着ない彼女用のプラグスーツが目に入る。アスカやレイのように特注品というわけではないため、サイズが少々合わないが、それでも今の彼女にとって鎧となるはずだ。 「そうですよね。着替え…といた方が」 少々ぎこちなかったが安全装置を入れ、ハンドガンを枕の隣に置く。同時に意識しない流れるような動きで、左手はネクタイをゆるめていた。ブラウスのボタンを外したことで、息苦しさが多少緩和されていく。汗を吸い、重く体に張り付いていた軍服は、正直着替えたかった。理由を見つけて着替える自分を正当化したかったのかも知れない。 (5分以内に着替えなきゃ。あう、汗が気持ち悪い。シャワーを浴びる…のはさすがにやりすぎですよね。こんな時にそんなこと考えるなんて、私ってもしかしたら凄くのんきなのかも知れない…わ?) その時、彼女は何か空気が変わったことに気がついた。慌ててキョロキョロと周囲を見回す。怯えたリスのような瞳が、忙しなく動いた。 「あ、あれ? なにか、変」 何がどう変わったのか? それはわからない。しかし、確実になにかが変わっている。明らかに、肩にのし掛かる空気の密度が濃くなった。ゾクリと冷たい物がマユミの背中を走った。 (………誰か、いる?) マユミは服を脱ぐ手を休め、静かに音を立てないようにして周囲を見渡した。怪しい物は何も目に入らない。開け放たれた扉は黒々と口を開け、机の上もベッドの上にも変化はない。狭い室内に隠れるところがあるとは思えない。しかし…。 「嘘…!」 一度通り過ぎた後、彼女は再び視線を戻す。十数秒前とは明らかに異なった光景に、マユミは目を見開き息をのんだ。ゴクリと喉が鳴り、彼女のきめこまかい白い首筋が震えた。 「扉が、全部、開いてる。私、ちょっとしか開けなかったのに」 彼女が部屋に入ったとき、非力な彼女は自分がくぐり抜けられるだけの幅しか扉を開けなかった。くぐり抜けるとき、胸とお尻がつっかえるくらいの幅しか開けてなかった。しかし、今は完全に扉は開かれていた。そして、入り口の床上には、先ほど彼女が見た粘液がべっとりと残されていた。さながら獲物を捉えた悪魔が垂らした涎のように。 「気づかなかった…そんなことって、あるの!?」 確かに彼女は目が悪いうえ、内省的な性格の所為で白昼夢を見やすく、意識を向けた物以外のことを失念しやすい傾向にある。しかし、それでも部屋の扉を開ける気配に気づかないなんて、そんなことがあるだろうか。 ほとんど怪奇現象のような出来事にマユミは本能的に後ずさりし、膝裏がベッドの端にぶつかった。予想もしていなかった衝撃に転びそうになるが、どうにかこらえる。 「きゃっ。……あ、落ち着いて。落ち着かないと。冷静に、考えないと、そうでないと大変なことになるから」 もしかしたら、謎の生物などではなく幽霊船に巣くう宇宙幽霊とかなのかも知れない。宇宙人の幽霊だ。そんな正気を疑われるようなことをマユミは本気で考えてしまった。心臓が激しく動き、体中の血液を無駄に早く循環させていく。 事はとかく重大だ。 MAGIの報告では、船内にはまだ1体の敵性体が潜んでいる。それがすぐ近くまで来ているのかも知れない。このままここにいるのは危険だ。 「一度、コクピットに戻って、MAGIに意見を聞かないと。ここじゃセンサーもないから何もわからないわ」 せめて携帯動体センサーがあれば…とそこまで考えて気がつく。携帯端末の機能に、MAGIと無線接続するというものがある。確か、動体センサーとして使用することもできたはず。 「そうだわ、それでなんと…か」 マユミはそこで言葉を飲み込んだ。 目を見開いた状態で固まってしまう。彼女が振り向いた先にあるのは、文庫本数冊、携帯型端末、フォトスタンド。マユミの目はフォトスタンドに固定されたまま、ピクリとも動かない。 (あ…ああ、し、静かに…静かに…部屋を) 何が見えているのだろう? フォトスタンドの写真は、部隊員一同が初めて会したときに撮影された記念撮影の物だ。まだほとんどの隊員と面識が無く、どこかよそよそしさを残したままのぎこちない記念撮影。認識番号と背の高さ順に並び、敬礼をした葛城小隊の皆が写っている。 思ってもいなかった若者揃いの部下達に戸惑いを隠せないミサト、やっぱり無表情のレイ、気品と威厳が溢れるアスカ、最初で最後のまじめな顔のマナ、緊張した面もちのヒカリ、アスカの隣で敬礼しつつもびくびくしている自分。 こうしてみれば結構見られるトウジ、涙を流して感動しているケンスケ、さすがに様になる敬礼のムサシ、やっぱり影の薄いケイタ、そして…。 いや、彼女が見ているのは写真ではない。写真の手前…写真をカバーしているガラスだ。 薄明かりに照らされたマユミがいる。縁なしの眼鏡をかけた、愁いを帯びた気の弱いおどおどした顔が映っている。 そして。 彼女の頭上、天井に巨大な蜘蛛のような生物が張り付いているのが映っていた。 マユミが自分に気がついたことを悟ったのか、その顎が指を開くように四方に開いた。イソギンチャクの触手の様な舌が幾本も踊った。涎が、恐怖に固まったマユミの肩の上に滴り落ちる。 「いっ、やぁぁぁ―――――――――っ!!」 【ぐぉおおおんっ!!】 甲高い悲鳴と、野太い吼え声がエヴァンゲリオン艦内に響いた。それが魔宴の始まりの合図だった。 「うあ、ああっ。逃げなきゃ、逃げないと」 自分を見下ろす生物の、煮たように白く濁った瞳がマユミを値踏みするように睨め付ける。明らかに食欲や好奇心とは違う、欲望に濡れた瞳に橙色の炎が燃えている。 両手足を広げて、出口とマユミとの間に生物は落下する。ふわりと音もなく生物は着地した。そしてゆっくりと立ち上がり、背中越しにマユミの目を見る。飛び下がり、手を口に当て、必死に悲鳴を飲み込むマユミの目はたっぷりと銀の滴を湛えていた。ゆっくりと生物は振り返る。 【っくくく。かぁ…はぁ】 「ひっ…ひぃ。ひぐっ」 自分を頭の先からつま先までねっとりと値踏みするように生物は見つめる。ニヤリと笑うように生物の口が動いた。もし口がきけたら、なんと言うのだろうか少し興味がわく…はずがない。どちらにしろ、それが最上級の賛辞だったとしても、マユミは嬉しくも何ともない。 (これが、これが進入してきた敵性体。なんて、なんて気持ち悪いの) ぶるぶると震え、絶望のすすり泣きを漏らしながらもマユミは目だけを動かしながら、なんとか生物を退ける手段を探した。本音を言うと、座り込んで泣きじゃくるか、あっさり気絶してしまいたい位なのだが、惜しいところで彼女の華奢な精神は持ちこたえてしまった。 (じゅ、銃は…枕の向こう。手を、手を伸ばしても、先に飛びかかられる…。ほ、他の方法をさがさ、ないと) 口を押さえている右手ではなく、左手は生物に見えないように机の上を手探りして、何か投げつけられる物を探し求める。人差し指が本、携帯端末、フォトスタンドを探り当てる。 「こ、来ないで! あっちに行って!」 本能的に、マユミは本でなく携帯端末を掴んで生物の顔めがけて投げつけた。携帯端末は生物の顔に命中する…どころか、全く違った方向に向かって飛んでいった。呆気にとられたように生物の目が床に転がる携帯端末の後を追った。 予想とは違ったが、生物の意識は一瞬だったがマユミから反らされた。 (い、今よ!) 枕の横のハンドガンに飛びつくように手を伸ばす。 銃が何か知っているからか、慌てて生物は腕をマユミに伸ばした。しかし、明らかにマユミの方が銃口を生物に向ける方が早い。そしてこれほどの至近距離なら、真っ直ぐに飛ぶ弾丸が生物の頭部を粉々にうち砕くのは自明の理だ。 銃を構え、躊躇も戸惑いもなくマユミは引き金を引き絞る。 グキッと鈍い音を立てて指が弾かれた。 「あ、あうううっ!?」 思わず銃を取り落とし、手を押さえてマユミは呻き声を上げる。予想を違えて動かなかった引き金に力を掛けすぎ、指をくじいてしまったのだ。安全装置を外していなかったのだ。そしてそこに生物は飛びかかってきた。 「きゃあ、きゃっ! いやっ!」 生物の腕が抱え込むようにマユミの肩を掴み、自分の方に引き寄せようとする。奇妙に柔らかい指が肩に食い込む感覚に怖気が走る。自分を捕らえて、この生物は何をしようと言うのだろう。何をされるのかはわからない。テレパスであるマユミは、直に生物と接触すればわかるかも知れないが。 だが、接触するまでもなく、隆々といきり立つ生物の股間の男根…。それが全てを物語っているようにマユミには感じられた。 「いや、いや、そんなの、絶対にイヤ。助けて、助けて…」 反射的に身をよじると、脱ぎ掛けていた上着だけが生物の腕の中に残された。 【ぶ、ぶぐぐぅぅっ!】 腹立たしげに上着を地面に投げ捨て、生物は改めてマユミに掴みかかる。 「きゃああっ!」 逃げる彼女だが、汗を吸った薄いブラウスの下の胸は、生物を誘う擬似餌のようにゆさゆさと揺れる。ただ大きいだけでなく、しっとりとした瑞々しさに溢れた胸に堪らなくなったのか、威嚇するように生物は両手を広げて口を開けた。涎が止めどなく溢れてこぼれ、見覚えのある粘液溜まりを作った。 「ひ、ひぃっ! や、イヤです。誰か、誰か…助けて」 また生物の腕が伸ばされる。小さな爪がブラウスに引っ掻き傷を作った。 「こないで! 近寄らないで!」 椅子を蹴り飛ばし、机の上に登ってまで逃げようとするマユミ。生物はぶつけられた椅子をものともせずに飛びかかる。かろうじて腕をかわしたマユミだが、バランスを崩して前のめりになり、そのまま生物の肩に膝蹴りを浴びせるようにして倒れ込んだ。 「…や、きゃああぁぁ〜〜〜!?」 【がおおおぅ!】 幸いマユミが倒れ込んだのはベッドの上だった。マユミの悲鳴と堅めのスプリングが軋む音がし、続いてはねとばされて床にマユミが転がる音が鈍く響いた。 「あ、ああ…」 全身に絡みつく自らの髪に戸惑いつつ、苦痛と混乱から回復したマユミは、すぐに逃げようとする。だが、なぜか足が動かない。自分のものでは無いかのように、ブルブルと細かく震えて言うことを聞かない。いや、足だけでなく体全体に力が入らない。戸惑い、声を失うがすぐに理由がわかった。恐怖が限界を超え、意識を失うより先に体の方が力を失った、つまり腰が抜けてしまったのだ。 心臓だけが激しく高鳴り、血圧の変化のせいか耳鳴りが彼女を襲う。 「あ…あ、ああっ。こんな、時に。アスカ、さん。助けて」 小ウサギのように怯え、鳥肌が立つ自分の肩を抱きながら、マユミはその場にぺたりとうずくまった。 首を振り、涙を一杯に浮かべた目で慈悲を乞うように生物を見上げる。だが、慈悲という概念を知らない生物に、そのような行動なんの意味があるというのか。うずくまり、逃げ場を失った彼女にゆっくりと生物の腕が伸びる。 「や、や…だ…。いやいや」 現実を閉め出すように、耳を押さえてメガネの奥の目を硬くきつく閉じた。だが、ただよう生臭さは彼女の意識を現実につなぎ止める。そしてネチャリと音をたてつつ、粘液にまみれた生物の腕がマユミの肩を掴んだ。 「い、いやなの。こんなこと。いやなの。いけないことなの。 …わたしは、わ、わた」 続いて髪の毛を、スカートからのぞくムッチリとした足を捕まれた。癖のない髪の毛は乱暴に乱され、もの凄い力でベッドの上へと引きずり起こされていく。 一瞬空中に投げ出され、失調するような浮遊感にマユミは頭皮に感じる痛みを一瞬忘れた。 「ふあああああっ!?」 どすん! ぎし、ぎしぎし…。 スプリングを軋ませて体をベッドに叩きつけられたとき、遂に堪えきれず、マユミは目を見開いて叫び声をあげた。 「イヤァァァ──────!!」 どこからこんなに大きな声が、と思うくらいけたたましい叫びが室内一杯に溢れた。生物でさえも、一瞬動きを止めてしまうくらいに大きな声だ。手足を縮こまらせた無理な姿勢のまま、マユミは悲鳴を上げ続ける。 その叫びは永遠に続くかとも思われたが、実際にはほんの数秒で悲鳴はやんだ。 「あああああぁぁ―――――――――――――――――――!!! あ、あああああ、ああぁぁ、あ、は、はぁ…ふぅ」 目が裏返り、線が切れたようにマユミの体から力が抜けた。縋るように寄りかかっていた壁から、ずるずると背中が滑り、ベッドの上に意識を無くした体が横たわった。くったりと手足を力なくベッドの上に投げ出し、荒い息とともに胸だけが上下している。 おずおずとマユミの額に張り付いていた前髪を撫で付け、さらにブラウス越しにその大きな胸を生物はつかみ、軽く揉んでみる。 「あ、あ………んくぅ」 貧血特有の青白い顔をして、完全にマユミは意識を失っていた。しかし、生物の指の動きに合わせて途切れ途切れの呻き声が漏れ出していく。もっともっと聞いていたくなる啼き声の予兆だ。感度の良い彼女の体は、意識が無くても淫蕩に生物の愛撫に反応しているのだ。 「ふぁ…あ…………あ、ん。………あ………あぁ」 そしてその乳房は堅すぎず柔らかすぎず、ほどよく生物の指がめり込み、しっかりとした弾力ではねとばそうとする。 【おおおおぉぉぉん。あぐぉう、おぉぉ!】 まるで縄張りを主張する獣のように雄叫びをあげると、身を乗り出すようにして生物はマユミの上にのし掛かった。 ぐぉおおお、ごぉおおおお。 ちょうどこんな音のする風だった。 呵責ない風が吹き、冷たい雨が降る日に父は死んだ。 死因はわからない。強盗が入ってからほんの数日後のことだった。 自殺だったのかも知れない。絶望から生きる気力を無くしてしまったのかも知れない。あるいは強盗と格闘したときの負傷が致命傷だったのかも知れない。 あの後…。太陽が橙色になった頃…散々に欲望を吐き散らした強盗は、母を抱きしめるためにナイフを手放した。ようやく見せたほんの僅かな隙。その瞬間、父は頭から強盗に体当たりした。 『ぎゃああ――――っ! ちくしょう!』 「ぐあうっ!」 強盗は父を殴り飛ばし、ナイフを拾って父の背中に突き立てる。自分が刺されたわけではないのに、マユミは激しい苦痛に床をのたうち、訳の分からないまま目の前の惨劇を見つめる。二度、三度…刃が閃くたびにマユミと父の口から揃って呻きが漏れた。 『く、くそっ。ちくしょう! なんて酷いことしやがる! 噛みつくなんて、獣かきさま! 山岸のくせに! くそぉ、血が、血がぁ。死んじまうよぉ』 身勝手なことを言い放ち、強盗はよたよたと転がるように逃げ出していく。父が噛みついた痕だろうか、押さえた脇腹は赤く染まり、手に持つナイフからはぽたぽたと赤い滴が滴っていた。 姿が見えなくなった頃…。ようやく、自分の成すべき事を思い出したようにマユミは父の側に駆け寄った。 「お、おとう…さん。起き…て」 赤い水たまりの上に膝をつき、肩をゆするが父はそのまま動かない。意識を無くした母は、頬を床に押しつけた姿勢のままピクリともしない。 「おかあ、さん。おとうさん、うごか、ない…よ」 まだ4歳だったが、彼女はよく覚えている。喪服を着た母はやつれ、虚ろな目をしていたがとても美しかった。母の柔らかい手の感触、ほつれ毛のある白いうなじ、胸が締め付けられるようなすすり泣きをする母。 (私が…しっかりしないと。お母さん、泣いてた) しばらくは父の残したさほど多くない蓄えで生活できたが、間もなく母は結婚前についていた仕事場に再就職した。 母が働くようになってから、マユミは幼いながらも家事の手伝いをするようになった。勿論、4歳児の彼女はあまり助けにはならなかったけど、そうせずにはいられなかった。自分がにっこり太陽みたいに笑っていれば、母も一緒に笑ってくれる。母の笑顔はお日様のよう、それがマユミの嬉しいこと。 寂しいけれど優しい母と一緒の生活。いつまでもそれが続くと、あのころの自分は思っていた。 しかし、その生活は数ヶ月後、予想だにしなかった変転を迎える。 夜遅く帰宅した母は、彼女の目の前で突然倒れ伏した。慌てて駆け寄り背中をさするマユミに、疲れながらも優しい視線を返す。 「だい、じょうぶ…だから。だいじょう……ううぐっ」 嘔吐をする母は明らかに異常だった。隣の家に住むおばさんが聞きつけてやってくるまで、ずっと母は自分の汚物の中で身悶えていた。当時は理由がわからなかったけれど、少ししてから母が寂しそうに笑いながら教えてくれた。 「お腹の中にね、マユミの弟か妹がいるのよ。そうなると、お母さんはこの間みたいに気分が悪くなって、ちょっと吐いたりするの。通過儀礼、と言ってもわからないわよね。病気じゃないけど、必ずあんな風に吐いちゃうのよ」 「苦しいの? 赤ちゃんが、お母さんをいじめてるの? そんなのいけないことだよ」 「違うわ。甘えているのよ」 白いゆったりとした服の上から、目立ち始めたお腹を撫でて母は目を閉じた。そして『いつかあなたもわかるわ』と言って抱きしめた。母が好きだった桃の花の香りが鼻をくすぐる。その時、下から見上げる母は笑いながらも泣いていた。理由を知るのは母の出産が間近に迫った頃になる。尤も、言葉の意味が分かるようになったのは10年近い時間が経過してからだった。 「あの人の子供じゃないかも知れない。あの、あの野獣の子供かも知れない。もし、もしそうだったら…。そんなことになったら、私、私…。うううっ、生みたくない。でも、あの人の子供だったら、もしそうなら」 検査をすることもできたが、母はそうしなかった。父の子供じゃなかった時のことが恐ろしかったのだろう。自分の子供なのに、愛することが出来なくなることが。母はマユミの知っている限り最も優しい人だけど、無限に優しい訳じゃないことを伺い知れる出来事だった。もし、母が検査をしたらどう思っただろう。自分が同じ立場になったとき、どう行動するかは棚に上げて母に失望したと思う。 (だから私は自分が嫌いになったのかも知れない) そしてもっと人を信じられなくなる出来事が、マユミを待っていた。それに比べれば、母の暗い影を見たことなど取るに足らない出来事だった。 妊娠した母は仕事を辞めなければならなかったが、ほどなく生活は安定することになる。 「マユミ、今日は大事な話があるの。あのね、お母さん再婚することに…なったわ」 「再婚…って、なに?」 「そうね、なんて言えばいいのかしら。新しいお父さんが出来るのよ。あなたも知ってる人よ。お父さんの学校の先輩で上司だった、万田さん」 恰幅が良く、頭がてかてかと光る大きなおじさん。いつも優しく、遊びに来るたびにオモチャを持ってきたりお菓子をくれるおじさん。父はあまり甘やかさないでくださいと、苦情を言っていた。その度に、まあ良いじゃないかと苦笑しつつおじさんは頭を掻いていた。 大きなおじさんが新しいお父さん? 「新しい、お父さんが欲しい?」 よくわからないままに、小さく頷いた。母はもしかしたら…反対して欲しかったのかも知れない。 どうして反対しなかったのだろう。幼き日の自分の決断に呪いあれ。もし、あの場に今の自分がいたとしたら、幼児虐待と言われようと激しく首を揺さぶって『No』と言わせただろう。そうすれば、きっとあんな事には…ならなかったのに。 「引っ越さないといけないね」 ハネムーンから帰ってすぐ、おじさん…もとい、新しい父はそう言い放ち、引っ越しを強行した。マユミはやめてやめてと、精一杯の抵抗をしたがあの優しさが何かの間違いだったかのように、新しい父は強引に、無慈悲に全てを変えていく。 巨大企業の若社長であり、同時に有力二世議員でもある新しい父は、それが当然であると言わんばかりに何もかも自分色に染め変えてしまった。 父の影を消されることに最も反対すると思われた母は、ハネムーン前とはあまりにも違いすぎる虚ろな目をして、父の所持品や写真を廃棄する様を見つめていた。何も言わず、ただおどおどびくびくと別人のように縮こまって。今思い出しても背筋がゾクリと寒くなる。 (そう、あの母の目は、全てを悟ったからだ。ハネムーンの間に気づいたに違いない) 値段もわからないような家屋敷に住み、全て天然素材で作られたドレスを着る。義父の父である会長の命令で、あまり派手な暮らしが出来るわけではなかったらしいが、それでもかつてとはあまりにも違いすぎる。正装しパーティで挨拶したり、男子禁制のお嬢様学校に通学するようになったりする、何もかも違いすぎる生活が始まった。 間もなく、自分が生まれた個人病院とは色んな意味で違う、巨大な総合病院で妹が生まれた。 退院した母の腕に抱かれる赤ちゃん…ちっちゃな妹は目も開いてなくて始終泣いていた。すぐに髪も生えるし大きくなるのよ、と母に言われたがとてもそうは思えなかった。それでも、可愛い妹、新しい家族なのだ。ぎゅっと手全体で小指を握りしめる。 「ほら、挨拶してあげなさい。お姉さんよ、モモコちゃん」 「え、えへへ。お姉ちゃん…ですよ」 「あうー」 心が温かくなるのを感じた。何かが、満たされていく。重苦しい不安を笑顔の奥に隠していた母も、偽りのない笑顔を久しぶりに見せてくれた。 良くやったと、喜色満面で母を褒める義父の声が聞こえるまでは。 新しい父の生活はそれから6年間何事もなく平穏に続いた。 いや、もしかしたら何事かはあったのかも知れない。それら全てを母は受け止めていたのだろう。一度、夜中に目を覚ましたマユミは、裸の母が廊下で義父に押さえつけられているのを見たことがある。 「ああ、こ、こんな乱暴に…ひどいこと、やめて」 「こうかぁっ! こうかぁっ! 山岸はこんなことしなかっただろ! どうだ!? どうだぁ!?」 「や、やめてぇ」 母は父のいないときによく泣いていた。 マユミが笑わなくなったのはこのころだ。 時々、父が自分を見る目が凶暴な光りに濁ることがあった。その一瞬、心の片隅を餓鬼の爪が引っ掻いたように小さな傷が出来る。 (あの男の、山岸の娘。見れば見るほどそっくりになっていく) その一方、実の子供じゃないはずなのに異様なほど妹を父は溺愛していた。 その時にも小さな傷がマユミの心に痕を残す。 (俺の…娘。俺と彼女との間の娘。2人の愛の結晶だ) 6年後、マユミが10歳、妹が6歳になったとき、母が死んだ。まだ三十半ばの、あまりにも早い死だった。死因は交通事故ということになっていたが、マユミも妹も信じていない。明らかに、何かがあったのだと言うことを本能的に悟っていた。 特にマユミは、葬儀の時、父の側にいたとき感じた心の引っ掻き傷を良く覚えている。 (俺を、裏切ろうとした。逃げようとした…許さない。例え、君であっても許さない) あまりにどす黒い感情に固まったマユミを、悲しみに暮れてると勘違いした父は、涙で濡れた顔を隠そうともせず彼女の頭を撫でた。撫でられた頭に、汚泥をなすりつけられている様な、嫌悪と吐き気を必死に飲み込みながらマユミはぎこちなく顔を上げた。 「大丈夫、変わらず君たちの面倒は私が見続ける」 (君がいなくなって悲しい。でも大丈夫。8年後、また君に会うことが出来るから。それまでの代用品もいる) 4年後、14歳になったマユミは高等学校生になっていた。妹は10歳。義父は50近くだったと思う。 その頃になると、マユミも母が何を悩んでいたのか、過去に何があったのかイヤでもわかってしまう。 もしかしたら、自分とは半分しか血のつながらない妹を愛することが出来なくなるかも知れない。そんな懸念を持ったりもしたが、幸いそれは懸念にしかならなかった。 妹は良く彼女になついたからだ。もしかしたら、本能的に自分の出生の秘密を悟っていたのかも知れない。詳しいことはわからなくても、何か秘密があることくらいは気づいていただろう。秘密を不安に思い、ぐれたりしなかったのはやはり母の血を受け継いでいるからだと思う。 そして、何より2人の意識を結びつけた理由は、妹が父を露骨に避けて嫌悪していたからだ。なにくれとなく気を使い、滑稽なほど一生懸命会話しようとする義父が何とも哀れに思えるほど、妹は彼を避けていた。 どうしてそんなに嫌うのか、それとなく聞いたことがある。 「怖い。優しいし、何くれとなく気を使ってくれるけど、でも怖い」 「そんなことは言わないの。血は繋がって無くても、私達のお父さんなんだから」 「…うん。努力する」 母そっくりの目をした妹は、そう言って自分にしがみついてきた。そういえば、妹は自分と2人だけの時は、決して義父の事を『父』とは呼ばなかった。あの人、おじさんなどと呼ぶ。 「怖いって、何が怖いの? 大丈夫、お姉ちゃんが守ってあげるから。絶対、絶対に」 抱きしめた妹の体はとても小さくて、暖かかった。日向の温もりの残る髪の毛を指で梳りながらマユミは思う。 かつては自分が母に守ってもらっていたけど、今は自分がこの子を守らないといけない。 そして運命の夜。マユミの覚悟は思っていた以上に早く試されることになる。 キィィ…。 扉が開くときの軋み音が、亡者の呻きのように不気味に大きく響く。 思うところがあって眠ってなかったマユミは、侵入者にすぐに気づいて体を起こした。上体を起こすときの、スプリングが軋む音が奇妙に不気味に感じられた。 闇の奥の影から、誰かが近づいてくる。 「お、お義父さん? な、なにか、ご用…ですか?」 既に深夜を回り、普通なら寝入ってる時間。親とはいえ、娘の部屋に訪ねてくる時間ではない。マユミの言葉に応えず、熱に浮かされたような目をした義父は、口元を歪めながらベッドの上で横たわったままのマユミにのし掛かってくる。熱い唇を舐める舌が生々しい音を立てた。 「や、なに!? なんですか!? やめて、やめて下さい!」 「大人しくしろ」 殺気を感じさせる重苦しい声と実際に体を押さえつける重さに、マユミは身動きが出来なくなった。声自体はまるで違っていたけれど、しかし抑揚や響きが、あの日母を襲った強盗によく似ていた。 (まさか…でも!) 思い当たることは幾つもある。しかし、最悪の結末を回避することを選んだマユミは、今まで敢えてその部分から目をそらしてきた。もっと…早く決断するべきだったかも知れない、とマユミは後悔していた。 ビリ、ビリリリィッ! 恐怖で指一本も動かすことも出来ないマユミから、引きむしるように寝間着を脱がしていく義父の息が荒くなっていく。 「きゃぁぁぁっ! な、なにを…お、お義父さん。ね、寝ぼけてるんですか?」 酒臭い息がまともに吹きかけられ、顔を背けるが臭いは執拗につきまとってくる。 「寝ぼけてなんかいない。もう、我慢の限界だって事だよ」 「な、なにを、言ってるのか…私にはわかりません」 「あいつが死んでからもう4年。我慢の限界なんだ。おまえだってもういい年だ、わかるだろう? 俺が何を言ってるのか、何を望んでいるのか」 「わ、わかりたくない! わかりたくありません! お願い、やめて下さい! 私達、義理とは言え親子なんですよ!」 哀切な悲鳴に、寝間着とシュミーズを引き裂く音で義父は答える。その音に数秒遅れてマユミの悲鳴が木霊した。 「やぁぁぁ―――――っ!」 「顔や無駄にでかい乳や尻は似てないが、声はそっくりだな。どもり癖があるところはあいつ似か。ま、これならなんとか代わりになるだろう」 「代わり!? 代わりって何のことなんです!? ああ、やめて…」 義父は答えようとせず、痛いほどきつく手首を握りしめ、抵抗できないマユミの、産毛の生えた体に舌を這わせていく。汚れを知らない処女地が陵辱されていく。 「ひぅ! いゃっ! やだぁ! 気持ち悪い! く、くすぐったいです! あああ、ひゃっ、やぅ、やだぁ! ひぃううっ、ひっくえっぐ、やめてぇ」 「まだまだ乳臭い臭いがするな」 ひとしきり鳥肌だったマユミの胸や首筋、顔を舐め回し口元を涎で濡らした義父は、狂犬のような目をしてマユミの顔をのぞき込む。『鬼…』涙でぼやけた目には、義父の顔は鬼にしか見えなかった。言いようのない怒りと不満、欲望をぶつけてくる。 「代わりが何のことかわからないのか? あいつの娘だから馬鹿なのはわかるが、それでもお前は彼女の娘だろう。聡明で美しく優しい彼女の…。一目見たときから、俺は彼女が運命の人だと確信した。だのに、既に結婚していた!! 山岸なんぞと! 幼なじみだかなんだかしらんがふざけやがって! 彼女の遺伝子に、馬鹿の山岸の血が混じったことが最大の失敗だったんだな!」 「なにを、なにを…言ってるんです! あなたは、お父さんの親友だったんじゃ、なかったんですか! こんな、こんな酷いこと」 「ふん! 生意気な口を利くな!」 パシーン 渇いた音がし、少し遅れてマユミは頬を平手打ちされたことに気づいた。ジンジンと痺れ、火を近づけられたように熱い。父を侮辱されたことで燃えた怒りが、一瞬で雲散霧消してしまう。 「大人しくしろ! 代用品は代用品らしく、黙って股を開いていろ!」 「あ、あうぅぅ。なにを、何を言ってるんですか…」 「まだわからないのか。この馬鹿女が。 お前はモモコが14歳になるまでの代用品だと言ってるんだ! それまで我慢できるかと思っていたが、さすがにもう我慢の限界なんでな。あいつがもう少し育つまで、お前の腹を代用品にするんだよ」 予想通りの答えに、マユミは言葉を失う。 あの優しさはやはり表向きの物で偽りだった。もっと早くに逃げ出せば良かった。痛みと悔しさ、悲しみで涙が止めどなく溢れてくる。 「なんで、なんで…お願い、こんな恐ろしいこと…。私達は、それでも、あなたのことを信じて、信じていたかった。 お願いです。お義父さんを…やめないで」 マユミの精一杯の哀願を無視し、義父は…いや、裏切り者は喜々とローションをたっぷりと塗した右手を、強引に下腹に、足の間のまだ淡い陰りに塗りつけていく。 「…抵抗したければしても良いぞ。ただし、抵抗したり、それから逃げようとしたら予定を繰り上げるだけだ。まだ未成熟なあいつは俺を受け入れられるかな。不本意だが、お前が逃げたら…どうなるか」 やはり逃げ場は封じられていたのだ。そしてこれから起こることを記録し、それでもってマユミを脅迫するつもりだろう。絵に描いたような展開だとマユミは思うが、だからといって解決する手段は思いつかない。 「モモコには、妹には手を出さないで」 「出さないで、だと?」 「あ、ああ、すみません! ご、ごめんなさい。妹には、モモコには酷いこと、しないでください」 上着を脱ぎ捨てた裏切り者の裸体がマユミの視界一杯に映る。初めて見る実父以外の異性の裸は嫌悪感しか感じさせない。ぶよぶよした下腹がつきでて、体の中心線に沿って野獣のような剛毛が生えている。あまりにも自分と違う男の裸に、繊細なマユミの精神は気絶寸前の恐怖を感じる。 そしてなにより、脇腹に残るミミズがのたうったような醜い傷がマユミの動きを封じた。それは、何かが囓り取ったあとのようにも見えた。 「安心しろ。お前が大人しく俺の言うことを聞けば、14になるまでは手を出さないでおいてやる」 「そ、そんな」 「口答えするな! 今これからでも良いんだぞ! そう、大人しくしてればいいんだ。 そうだな。今日これからされること全部に気持ち良いって応えろ。いいな、売女」 この男は本気だ。本気で言っている。マユミが抵抗すれば躊躇無く行動するだろう。最悪マユミを絞め殺し、妹を今から暴行しかねない。 (お、お母さん…私に、勇気を…) 覚悟を決めたマユミは静かに目を閉じた。吐きそうな嫌悪に包まれて、ざらざらした手の平が無遠慮に、まだ未成熟な体を撫で回すのを受け入れる。そして焼けた杭をさし込まれるような―――。 2時間後、裏切り者が部屋を出ていった後、静かに泣いた。 (あの日から、自分は嫌なことがあると本の世界に、空想の世界に逃避するようになった。本の中には、ずかずかと心の中に踏み込む人もいなければ、イヤらしい男の人もいない。 人形のように無反応の私の体を、あの男はそれから三日と空けずに弄ぶ。誰にも言えない秘密ができた。生徒手帳の模範例みたいな私が誰よりもふしだらなことを経験してる。誰も知らない、知ってはいけない呪わしい秘密) でも今度は自分の番。母がそうして自分を守ってきたように、今度は自分が妹を守るのだ。
そして話はそれぞれへと続く
後書き あーこれで後戻りは出来ねぇな。 やっちまった。遂に5人娘全員制覇だ。嫌グランドスラム達成! んで、マユラーだと言う某氏。嬉しいか嬉しいか!? (・且・) ユーの提案したネタは今回まだ使ってないが、次で使うぞ! この変態め。そしてそのネタにハァハァしてしまったワガハイ。 どっちにしろ、最低だ…俺って。となること請け合いナリ。 さて、次回はマユミ嬢陵辱編。 全編エロ。んでもって、一部グロ。まあ、今回のマユミの過去の設定はかなり痛いと思いますが、この調子で大丈夫なのだろうか我ながら。大丈夫じゃないな。じつは今回、書いててかなり鬱になりました。やはり私はチキンみたいです。よし、まともだ! そのくせ、もっと酷いネタを考えてたりしてるのですよね…。やっぱ普通じゃないですじょ。それでも大丈夫、という人だけおつき合い下さいな。 2003/10/30 Vol1.02 |