『右手の肖像』
Original text:PDX.さん
「ふぁああ、おはよ」
「おはよう、お姉ちゃん」
だれきった声のお姉ちゃんに、堅い声で返事をする。お姉ちゃんはそんな私の態度を気にする事も無く、朝のシャワーを浴びに行った。
ふと、お姉ちゃんの右手を見てしまう。昨日の夜、ベッドの中であんなことをしていた右手。きっと、ボーイフレンドともエッチなことをしてきた右手。
「不潔……」
誰にも聞こえないような小声で、私はそう呟いた。
気を取り直して、朝食の準備を再開する。お姉ちゃんの事を忘れようとするかのように、むきになって葱を刻む。
そんな自分の右手をみつめる。いつか私の手もあんな風に汚れてしまうんだろうか。とても信じられない。
「おはよーっ」
「おはよっス」
第壱中学までの通学路。学校が近づくにつれて見知った顔が増えてくる。
「おはよう、委員長」
「よっ、いいんちょ」
「あ、洞木さん、おはよう」
「おはよう。今日は早いのね」
「それを言うなや」
三馬鹿にも声をかける。一瞬だけ碇君と視線が重なる。だけどお互い表情には何もださずに、お互い何もいわずに学校に向かう。
碇君。碇シンジ君。
私たちのクラスに転入してきた男の子。
線が細くて、なんだか頼りない感じのする男の子。
そして、あのロボットのパイロット。
その話を聞いたときは、とてもじゃないけど信じる事ができなかった。だって、あんな優しそうな、悪く言えば臆病そうな碇君が戦っているだなんて。
でもそれは本当のことみたい。相田君がどこかで調べてきたみたいだし、この前怪物が出たときも、碇君はシェルターに来なかったから。
クラスの女の子達は、ロボットのパイロットということでミーハー気分丸出しで碇君に声をかけていた。顔立ちも可愛いって言っていたけど、でもやっぱり頼りないって方じゃないかと思う。
彼の右手は、やっぱり線が細くて、力強さなんてぜんぜん感じられなかった。
碇君は人と話すのが苦手みたいで、女の子達に言い寄られてあたふたしていた。なんだか口下手な感じだし、ネルフのことについては秘密ばっかりで何も教えてくれないせいか、いつの間にかミーハーな子達は彼から遠ざかっていった。
私も、クラスの用事がなければ特に彼と親しくする事はなかったと思う。
彼の事が好みかどうかって訊かれたら、頼りなさそうだから好みじゃないと答えていたと思うし。
だから不思議。いつの間にか、私たちが特別な関係になってしまったなんて。
最初のきっかけは、近所のスーパーだった。
制服姿のままでカゴを手にした碇君が、お魚のパックを選んでいたの。なんだか凄く場違いな雰囲気がして思わず吹き出しそうになっちゃった。
「碇君もお買い物?」
「え? あ、ほ、洞木さん?」
「そうよ? どうしたの? 何かついてる?」
「え?あ、違うんだ。その、制服じゃないから」
慌てて言い訳する碇君。いつも制服姿の『委員長』の私しか見た事がなかったから、一度家に帰って着替えてきた私を見て、他人の空似かと思ったんですって。失礼な話。
「夕ご飯のお買い物?」
「え、う、うん」
「今日はお魚なんだ」
「えっと、これはペンペンの」
「ペンペン?」
「あ、うちのペンギンの、ペンペン」
「ペンギン!?」
思わず訊き返しちゃった。だってペンギンよペンギン。南極のペンギンはセカンドインパクトで全滅しちゃったし、その他の地域のペンギンも野生のものはほぼ全滅。あちこちの動物園や水族館に残っていたペンギンだって、セカンドインパクト後の混乱の間に、餌不足とかで大半が死んでしまったのに。
話を聞いて見たら、実験動物だったペンギンを引き取ったんだって。それはそれでかわいそうな話だったけど、なんとか納得。実験動物だったなんてひどい話だけど、碇君や葛城さんが悪いわけじゃないし。
そのペンギンは結構頭もいいみたいで、半分社交辞令、半分本気で「今度遊びに行ったら会わせてね」なんて言っちゃった。きっとペンギンの話をしたらノゾミも喜ぶんじゃないかな。
とにかく、ペンギンの話だなんて意外な切り口から、私たちはずいぶんおしゃべりをしてしまった。
碇君は相変わらず人と話すことに慣れていない感じだったけど、でも悪い人じゃないし、こっちから話せばちゃんと返事をしてくれるんだって解った。
そんな彼の右手には絆創膏が貼られていた。慣れないお料理をしていて包丁で切ってしまったんですって。
それがきっかけで、私たちは時々話をするようになった。それはいつもスーパーの生鮮食料品売場だったけど。
最近料理を始めたばかりだという碇君のお買い物は、言うまでも無くすごく不合理で無駄が多かったの。だからつい、おせっかいをしちゃった。特売を上手に利用する事、スーパーと専門のお店の使い分け、お魚やお肉の鮮度の見分け方……なんだか所帯じみたことばかりだったけど、碇君は私の説明を一つ一つ聞いて、感心しながら頷いていた。
そんなことが何度かあって、料理のレシピとか、夕食の残りをお弁当に上手く使い回す方法なんかの話もするようになってた。私お勧めの解りやすいお料理の本を貸してあげたり。
学校では相変わらずただのクラスメートとして接していたけど、放課後の私たちはスーパーだなんてあまり色気のない場所で次第に仲良くなっていったの。
そして初めてのデート。ううん、碇君の方にはそんな意識はなかったかもしれないけど、私は少しだけそう意識してた。
日曜日に駅前のデパートのバーゲンセールに繰り出してお買い物。碇君が使いやすい台所用品を買うのを私がアドバイス。
そのお礼に、私が洋服を買うときに荷物持ちをしてくれるという約束。
台所用品は意外と大荷物になっちゃったから、葛城さんのおうちに配送してもらう事になった。
「これで楽になったわね」
「あんな荷物持って帰れないよ」
「ふふ、それじゃ、この後荷物持ちお願いね」
「ええ〜っ」
「さぁ、行きましょ」
困ったような顔をする碇君を、不覚にも可愛いだなんて思ってしまった。
碇君の困惑は、場違いな婦人服売場でさらに上乗せされたみたい。だって周りは女性のお客さんばっかり。私達と同じくらいの女の子や年上のお姉さん、そしておばさん達。
早く帰りたいって顔に書かれている碇君が気の毒だったから、いつもの半分くらいしかお店を回らずに買う物を決めちゃった。あとさすがに、下着売場も避けてあげた。
今日もスーパーに寄ってお買い物。私は学校からの帰り道、碇君はネルフでの待機任務からの帰りだったから駅で待ち合わせ。
「お待たせ。待たせちゃったかな」
「ううん、今来たところよ。さ、行きましょ」
そして、ちょっとした勇気。碇君の手をとって歩き出して、そのまま手を繋いだままスーパーに向かう。そのことに気付いた碇君は真っ赤。ううん、私も真っ赤だから、二人して真っ赤になったまま、無言ですたすたと歩いていくの。
「ほ、洞木さん」
「な、何?」
「あの、手……」
「いや?」
「え?」
「私と繋ぐの、いや?」
「そ、そんなことないよ」 きゅっ、って握り返してくれた。それだけで舞い上がっちゃいそう。
碇君の右手はやっぱり細くて頼りなさげだったけど、でも、この手が私達を守ってくれているんだ。とても柔らかくて優しくて、そして暖かい手だった。
次の一歩を踏み込んでくれたのは碇君だった。
お買い物の帰りに公園に寄り道して、少しおしゃべりして、何か言いたそうで、でもそれを中々言い出せない雰囲気。私は、もしかしたら、と少し期待して彼の言葉を待った。
そして碇君は、私のことを好きだと言ってくれた。
飾り気の無い簡単な言葉だったけど、碇君にとっては最大限の勇気だったんだと思う。だから私も、碇君の勇気に笑顔で答えた。
次の瞬間、私は彼に抱きしめられていた。
そして、そして、初めてのキス。
驚いたけど、びっくりしたけど、ほんの一瞬だったけど、確かにそれは私のファースト・キスだった。
その後はお互い気恥ずかしくて、一緒に歩いて帰る途中も、ほとんど何も話すことができなかった。
無言で握り続けた手の温もりが、とても嬉しかった。
二度目のキスも、ためらいがちだった。
三度目のキスは、少し大胆になった。
四度目のキスは、初めて私から求めてみた。
初めてのときは驚いて意識が真っ白になってしまってよくわからなかったけど、キスってとても素敵。
唇と唇を触れ合わせる、たったそれだけのことなのに。
だけどあんなに幸せになれる。夢を見ているような気持ちになれる。もっともっとこうしていたいと思える。
今日は碇君はネルフで待機任務。だから一緒にお買い物ができない。碇君とおしゃべりができない。碇君と……キス……できない。
私はちょっとだけ、あの『使徒』という化け物を恨んだ。
日曜日、郊外の大型ショッピングセンターで買い物デート。
碇君も、私服姿の私に慣れてくれたみたいで嬉しい。制服姿の『委員長』じゃなくて、普段着の私の事を好きだと言ってくれるのがとても嬉しい。
少しだけ調子に乗って、照れる碇君を水着売場に連れていっちゃった。ビキニの水着とワンピースの水着のどちらがいいか尋ねたら、真っ赤になっちゃう碇君。
そう言えば、碇君は沖縄に行けなかったのよね。
今度は学校の行事じゃなくて、碇君と海に行きたい。ちょっと恥ずかしいけど、水着姿を見て欲しい。
その他にもあちこちをウインドウ・ショッピングして回って、カフェで一休みして。そしてショッピングセンターをもう一回り。広くて売場もたくさんあるから、どれだけ見て回っても足りないくらい。
もう少しで帰らないといけないって時間になったとき、碇君から意味深なお誘い。
売場から屋上の駐車場に続く階段の踊り場で一休み。
みんなエスカレーターやエレベーターを使うからここはちょっとした穴場みたい。
誰もいない踊り場で、碇君に抱き寄せられて、甘い甘いキス。いつもより長いキス。そして、初めての、ディープ・キス。
唇をそっと割るようにして入ってきた舌。おそるおそる差し出されたそれを、私は目を閉じて受け入れた。
もっと、もっと来て。私も舌を伸ばして碇君に応えてあげた。
優しく触れ合う私達。とろけるように、絡み合うように、私達は静かにお互いを貪った。
きつく抱きしめられて、何分も何分もキスを続けた。
その夜、私はぜんぜん寝つけなかった。
ベッドに入って、暗い天井を見つめても、思い出すのはあのキスの時のことばかり。
抱き寄せられて、唇を重ね合って、そして舌まで。
いつものキスのときよりずっとずっときつい抱擁。碇君ったら、どさくさにまぎれてお尻を撫でてたと思う。
でもそんなことよりも、身体と身体を密着させてのキスだったことのほうがずっと恥ずかしい。
きっと、着衣ごしに私の胸の感触が碇君に伝わっていたと思う。だって、服の上からでも、その、碇君のあれを感じちゃったから。
スカートとズボンごしにでも、碇君がそこを堅くしてたのがわかっちゃった。
私のことをきつく抱きしめて、まるで腰と腰とを押し付けるようにして。
あれって、勃起というのよね? 碇君、キスをしながらエッチな気持ちになってたんだ。私とエッチなことをしたいって、そう思ってたんだ。
その事を思い出して、あの感触を思い出して、もうたまらないくらいに恥ずかしくなっちゃう。
ううん、碇君のことが嫌いになったってことじゃないの。軽蔑とか、そういうのとも違うの。ただびっくりして、そしてドキドキしちゃうの。
もう何時間も前の事なのに、今でも胸のドキドキが収まらない。それだけじゃないの。碇君が触れていたところが……碇君のが触れていたところがジンジン熱いの。
イケナイことだって思うのに、伸ばした右手でパジャマの上からそこに触れてしまった。
「ぁ……!」
私のそこは、驚くくらいに熱を帯びていて、少し触れただけで身震いしちゃうほどの快感が走った。そう、快感。生まれて初めて感じたそれは、とても甘美だった。
碇君の抱擁を、初めてのディープ・キスを思い出しながらゆっくりと撫でる。
碇君のものが当たっていたところを、碇君の感触を思い出しながら撫でる。
「ああ……」
思わず漏れてしまう甘い声。ぴっちり閉じていた筈の脚をすこしだけ開いて、もっと大胆にタッチ。熱く疼く部分が濡れているってわかる。
だめ……こんな……いけない……いつもの私だったらそう思っていたはず。でも、あの甘美な記憶がそんな生真面目な私を麻痺させてしまった。
碇君の唇。碇君の指。そして碇君の……。
「!!」
ちょうどその瞬間、右手の指先がいちばん敏感なところをなぞっていったの。あやうく大声を出しちゃいそうになって。だけど、エッチなことを、気持ちいいことをやめることができなくて。私はおそるおそる、もう一度そこに触れてみた。
「……!!」
パジャマとショーツの上からでも、その微妙な凹凸がわかるくらいになってる。ジンジンと痺れたみたいになっている部分は、そっと触れただけでも素敵な気分になれる。
碇君も、こんなふうに私のここにタッチしたかったのかな。
碇君のあれ……私の……。
とてもとても恥ずかしいことを想像して、だけど右手が止まらなくて。私は、そのままエッチなことを続けてしまった。
碇君、碇君、碇君!
大好きな碇君のことをひたすら想いながら、碇君とのエッチを想像しながら、私は、初めて……。
「ああああ!!」
頭の中が真っ白になって、とっても素敵な気持ちになって、そしてそのまま、私はベッドの中で気を失った。
翌朝。
学校に向かう足はとても重くて、気を抜くと立ち止まってしまいそう。
だってだって、学校には碇君がいるのに。
昨日の夜、あんなことをしちゃったのに、彼にどう挨拶すればいいの?
碇君に会いたい。でも恥ずかしい。とっても恥ずかしい。
学校に行く事を逡巡するなんて初めて。
そして、心の準備もできていない私の背後から、一番聞きたかった、そして一番恐かった声がかけられたの。
「お、おはよう、洞木さん」
「お、お、おはよう、碇君」
なんとか返事をして、努めて平静を装って振り向く。でも駄目。目が合った瞬間に頭が沸騰しちゃう。碇君の顔を見ていられない。
「ど、どうかしたの?」
「な、なんでもないのよ」
私につられたのか、碇君の声もどもりがち。ううん、碇君も私に負けず劣らず真っ赤になってる。
(あ……!)
その時わかったの。碇君も同じなんだって。
きっと、昨夜の私と同じように、碇君も……。
その、男の子がどうするのかなんて想像もできなかったけど、でも、碇君が私と同じことをしたんだって確信したの。
すごく恥ずかしくて、すごくドキドキして、だけどすごく素敵だと思った。
だから、勇気を出して、もう一歩。
「ち、遅刻しちゃうといけないよね、早く行きましょう、碇君」
彼の手を取って走り出す。走りながら、照れ隠しに言葉を紡ぐ。
「ね、碇君」
「なに?」
「今度の日曜日、あいてる?」
「あいてるけど?」
「またショッピングにいきましょ!」
「え?」
「また昨日みたいに……ね?」
「……うん」
笑顔で返事をしてくれた碇君。
駆け出すときにとっさに掴んでしまった碇君の右手。きっと、昨夜私みたいな事をしたその手を、不潔だなんて少しも思わなかった。
だって、私の大好きな碇君の手なんだから。
終わり。