【番外編 -奨×零-】
 
あの方は頭上に王冠をいただく尊き王。
天主に仕える四王の一人。
その身に流れる血は、これ以上はないというほど高貴なもので、天界にあってはあの方に頭(こうべ)を下げぬ者は、片手で足りるほどしかいなかった。
気品溢れる美しいあの方が、何ゆえ自分のような下賎(げせん)の者に手を差し伸べるのか?
それが、分からなくて。
差し出された手を掴むことも拒むこともできなくて。
我ながら、情けないとは思うけれど。
前に進む勇気がなくて、立ち止まったままでいる……。





「お前を一番必要としている人のところにいけよ。それがお前の幸福だよ」
親友の言葉が鮮やかに耳に蘇る。
どれだけの気持ちが込められているか分かりすぎるほど分かっているから、心に染みた。
「きっと俺、零のことは大切すぎて恋にならなかった。だから、さ。零には幸せになってもらいたい」
優しくて綺麗な友人。
ずっと自分が片想いし続けてきた相手は、穏やかな微笑を浮べて優しく告げた。
零が友人の幸せを祈るように、友人もまた、零の幸せを望んでくれた。
そして、友人の瞳に浮かんだ寂しげな色に、どれだけ自分を大切に想ってくれていたかを思い知って泣きそうになる。これがこの恋の、終着点。アイツもそれが分かっていたから、自分の恋を惜しんで哀しんでくれた。
自分は男だったから、一応、「女」であるアイツの前では泣けなかったけど。
ただただ自分の幸せだけを祈って、背を押してくれた友人に、感謝せずにはいられない。
友人がくれた『想い』は、大切な宝物になった。
……だけど紗那、俺は怖いんだ。
今は傍にいない友人に向かって、心の中で零はそっと語りかける。
最初からあの人は自分にとって特別な人だった。
心を持たないただの『人形』だったころ、あの人の想いに気がつかなかったから、平気で裏切ることができた。どれほど愛されていたか気がつきもせず、他の男を追って自分はこの世界へとやって来たのだ。
けれど今は知ってしまったから。
あれほど激しく求愛されて、心が傾かないはずがなかった。当たり前のようにあの人の想いに絡めとられた。
なのに、自分はまだ、あの人を受け入れられないでいる。
あの手を取ることを躊躇っている。
あの手を取ったとたんに冷たく突き放されそうで、ここから動けないでいる。
あの頃の自分に戻ってしまいそうで、あの腕に抱かれることを躊躇っている。
この体では抱かれたことはないけれど、かつて天界にいた頃、自分はあの人に何度も抱かれた。そのときのあの人の、自分を見下ろす冷たい眼差しが忘れられない。男娼ぶぜいと蔑みの目で見られたことは、一度や二度ではない。
『心』を持たなかったときは、何も感じはしなかったけど。再びあの眼差しを向けられたら、自分はきっと死にたいほど哀しくなってしまう。
一度でも抱かれたらあの頃の自分に戻ってしまいそうで、あの人の腕を拒み続けている。あの人に軽蔑されていたあの頃の自分に、絶対に戻りたくなかった。なのに、拒み続けながら、いつかあの人の愛情が尽きてしまうのではないかと怯えている。
なんて滑稽なのだろう。
あの頃の自分に戻りたくないと言いながら、今の自分の弱さはなんなのだろう。あの頃から微塵も成長していないのではないか?
……今の俺の姿を見たら、紗那、お前はなんて言う?
なにも、言わないだろう。
なにも言わず、紗那はありのままの零を受け入れてくれるのだろう。
紗那はいつだって自分を信頼してくれていた。自分が自力で這い上がれることを、当の本人よりも信じきっていた。
……紗那、俺、幸せになれるのかな?
あたりまえだと、力強く頷く友人の声が聞こえる気がした……





……うーっ。なっさけねぇー。
数年ぶりに雨角零(うずみれい)は風邪をひいて寝込んでいた。体温を測ったら、40度ジャスト。
……し、死ぬ……。
零は体温を測ったことを後悔した。熱があるなとは思ったが、これほどの高熱だとは思わなかった。余計に頭が痛くなった気がする。
気持ち悪い。
苦しい。
最悪だ。
「……申し、訳、ありません……」
息も絶え絶えに言うと、「病人が気を使うな」と軽く怒られ、零は首をすくませた。
零の額に乗せられていた氷嚢(ひょうのう)を取り替えたのは、かつての零の主であり、零に現在求愛中の男でもある。人間界に降りた自分を追ってきてラザスダグラがこの地に来てからもう七年経つ。その間、二人は衣食住を共にしてきたが、いまだ肉体関係はない。
ラザスダグラは雨角奨(うずみしょう)と名乗り、何をどう操作したかは謎だが戸籍上では零の兄ということになっていた。
……気を使うなって……使うよ……。いっそほっといてくれたほうが……精神衛生上いいんですけど……。
口に出せるはずもないので、零は内心だけで呟いた。
四王の一人であり、天主アルザールの長子でもある貴(とうと)い方が、病人の看護! それだけでも心臓に悪いのに、看護されているのは他でもない自分なのだ。
零は頭も痛かったが胃もキリキリと痛かった。
かつての主と肉親として暮らしているという点では同じなのに、紗那は自分とは違って平然としていた。ラザスダグラと同じ地位にあり、やはり四王の一人であるグレス=ファディルを「オヤジ」と呼び、娘であることの恩恵をごく自然に受け止めていた。
あれほどの図太さが自分にもあればと羨ましく思う。
そして同時に自分を情けなく思う。何をやっているのだろう、自分は。
なんだか涙が出そうだ。
病気のせいで普段より気弱になっているせいか、本当に涙が出て零は慌てた。
「零、苦しいのか?」
「……いえ……大丈夫です……」
「そうか」
ラザスダグラは微かに笑い、零の火照った頬をひんやりとした手で優しく撫でた。
……あ。やばい。そんなに優しくされたら……俺……。
辛いときほど、人は優しくされると脆くなる。
切なくて、胸が苦しくて、再び滲み出た涙を見られないように、零はラザスダグラに背を向けた。
「零?」
「……申し訳……ございません……」
零は絞り出すような声で言った。
自分の看病をさせてしまっていることと、今自分が取った無礼な態度と……そして、想いを受け入れられないことにたいする謝罪の言葉。
なにかもっと話さなければと思いつつ、嗚咽が漏れそうになり、唇をかみ締めた。
「お前が謝る必要はない。咎(とが)は私のほうにある」
「…………!!」
そんなセリフを聞きたいわけじゃなかった。
自分が交わしたいのはこんな会話じゃない。
止めようと思っても涙は止まらず、溢れ出てきた。零は顔を隠すように、布団の中に潜り込んだ。だが、気が付かれてしまっただろう。鋭い人なのだ。自分に関しては特に。なのに……肝心なことは、分かってくれない……。
「零、眠りなさい。病気のときにいろいろ考えてはいけない。私はなにか果物を買ってくる。目が覚めたとき、お前が食べるようにね」
優しい気遣い。
買い物に行ったのは、自分を一人にしてくれるため。
自分が思いっきり泣けるように……。
「ふっ……くっ……」
声を押し殺して静かに泣いた。誰も見ていないとはいえ堂々と泣くなど、26にもなる男がみっともなさすぎる。十分自分はみっともないが。
……強引に、奪ってくれればいいのに。
そうすれば自分は、迷わずあの胸にすがり付けるのに。
告白の言葉はあまりにも重くて口に出せない。
だから……奪ってくれればいいのに。
それが今の自分の唯一の望みなのだ……。





「ずいぶんと我慢強いのだな」
「『初夜』に妹を抱かなかったあなたほどではない」
「あれは我慢強いというより……ただ、自分が臆病だっただけだ」
誠司は苦笑した。
かつて最愛の人の想いを読み違えて、傷つけ、失いかけて、永い間離れ離れになってしまったことは今でも苦い思い出だ。
永いときを超えてやっと巡り合い、互いに気持ちを打ち明け合ってともに暮らしている今でさえ、誠司は安心など出来なかった。もう二度と愛する妻を手放せないと、ことあるごとに手を伸ばし、愛しい人の存在を確かめずにはいられなかった。
すがり付いてくる華奢な体に恋人も自分と同じ気持ちでいると信じられて、ようやく安心できるのだ。
「よくぞ好きな相手と同じ部屋にいて、その気にならぬものだ」
自分には到底、真似できない。
例えそれが相手のためであったとしても、あの愛しい存在を前にして自分の欲望を抑え込むことは難しい。
誠司は心の底から感心していた。
「その気にはなっている。ただ、同じ轍(てつ)を踏みたくないだけだ」
誠司の言葉に、今は雨角奨と呼ばれている男は軽く笑った。
奨もまた自分と同じように過去を悔やみ、この世界でこそ、愛する人と再びともに歩みたいと願っていた。
「誠司、これが頼まれていた調査結果だ。予想通り結界が緩んでいる。一応、応急処置はしておいたが、私はあまり結界を張るのは得意ではない」
誠司は奨から受け取った、数枚の紙にまとめられた調査結果に目を通した。
この世界に来た頃は使ったことなどなかったはずのパソコンを今は軽々と使いこなし、内容も分かりやすく、報告書は綺麗にまとまっている。見事なものだ。自分の期待以上の仕事に、誠司は満足した。
昔からこの男の有能さは知っていたし、できれば敵に回したくないと思っていた。
『グレス=ファディル』が天主の位につくことを反対する者は、『ラザスダグラ』を担ぎ上げようとした。そのため本人たちの思惑とは裏腹に、二人が親しく話すことなど周囲の人間が許さなかった。しかし、この世界ではそんなしがらみに縛られることもなく、交友を暖めることができた。
そしてせっかくの人材を見逃す気にはなれず、奨がこの世界に降りてすぐ仕事を手伝って欲しいとスカウトしたのだ。最初は面食らっていた奨も、この世界の理……通貨制度のことなど説明し、働くことが必要であることを理解した奨は、誠司の申し出を了承したのだった。零に養われる・・・・・・という状況が我慢ならなかったのだろう。好きな相手にいいところを見せたいという気持ちはよく分かる。
「私のほうがよほど不得意だ」
軽く肩をすくめて言った。
この世界はとにかく不安定だ。ときおり世界に『穴』が開き、異世界と繋がってしまうことがある。そのまま放っておくとあちら側の生き物がこちらに雪崩れ込み、混乱が起きる。そのため『穴』が自然と塞がれるまでは、結界を張って世界とあちらの世界とを隔てるのだ。だがあいにく、誠司は力加減の難しい術を使うのは苦手だった。
「頼み込んで匡(たすく)に出むいてもらうことにしよう。滅多に動いてはくれないが、ここまでひどいとなんとか拝(おが)み倒すしかない」
「匡?」
「穂高匡(ほだかたすく)。『リューザ=リカオ=キースダリア』とも言う。今は私の息子でもあるが」
「息子……? それは、ずいぶんと、扱いにくそうだな……」
『リューザ=リカオ=キースダリア』も『ラザスダグラ』も中枢に近いところにいる。面識はないものの、それなりに互いの噂は耳に入っているのだろう。自分も天界にいる頃から、リューザ=リカオ=キースダリアの名は耳にしていた。
叡智に長け恐ろしく頭が切れるが、気まぐれな自分勝手な性格をしているとか。
その実力は母親である魔王とすでに遜色なく、跡を継ぐことを確実視されているとか。
「扱いにくい? いや、そうでもない。それなりに可愛い息子だと思っている」
匡の顔を思い浮かべながら言った。
確かに匡は気まぐれだ。敵に対しては容赦なく、味方に対しても素直に優しさを振りまけるようなかわいい根性はしていない。
だからといって、情がまったくないわけではなかった。
「可愛い……?」
奨は驚いたような、呆れたような顔で誠司を見返した。
そして、ふいに笑い出した。
「くっ……くく……」
「奨?」
突然笑い出した奨に、誠司は怪訝な視線を向けた。
「いや……すまない。あなたらしいなと思って」
「そうか?」
「ええ。あなたは本当に人を使うのは上手い。私だけでなく、あのリューザ=リカオ=キースダリアでさえあなたのために動く。それだけでなくもっと私が驚いたのが、任務を遂行するためにこちらの人間の力も利用していることだ。父上が知ったらさぞかし感心なさることだろう」
誠司は警備会社のようなものを経営している。
表向きは人間相手にボディーガードや警備の仕事をしているが、しかし裏ではこの世界に紛れ込んだ異世界からの住民の始末をしていた。裏の仕事こそが、この世界の管理者である『グレス=ファディル』の本来の役割なのだ。
グレス=ファディルがこの世界に渡るにあたり、アルザールはいくつか条件を出した。その一つが、「世界の均衡を保つもの」としての役割を果たすことだった。
誠司はその仕事を人間にも手伝わせていた。
「ずいぶんとこの世界に馴染んでおられるな」
「こちらに来てからもう二千年になるからな。慣れもする。この世界はずいぶんとバランスが悪く、とても私一人では対応しきれない。紗那がいなくなってからはとくに人手不足で困っている。だから奨の手助けは大変ありがたい。今回の仕事料は銀行振り込みでいいか? それとも現金がいいか?」
「今回は必要ない。生活費は、前回の分がまだ十分残っているしな。私がここにいることはルール違反。それをこの世界の管理者であるあなたは目をつぶってくれている。それに対するささやかな礼だと思ってくれればいい」
「いや。あの男がなにも言ってこないあたり、ルール違反とも言い切れない。いったい何を企んでいるのか……」
誠司は思わず溜息をついた。
あの男の考えることは、昔からよく分からない。
「あの男?」
「……アルザールだ」
匡と同じぐらいに気まぐれで我侭。
そして、誰よりも身勝手な男・・・・・・。





奨は、アルザールのことを思い出し、黙り込んだ誠司の顔を、まじまじと観察してしまった。滅多に表情を変えない誠司が、珍しく顔を不快そうに歪ませている。唯一誠司が苦手とする男が天主であるアルザールだ。
『ラザスダグラ』にとってアルザールは偉大すぎる父だった。その威光におされて、自分は父の前ではただ萎縮するしかなかった。
自分には世界を支えられるだけの力量はない。アルザールが息子である自分ではなく、『グレス=ファディル』を選んだ理由がよく分かる。そのことに自分は強い劣等感を感じていた。
自分を跡継ぎに選ばないことこそ父の優しさだと、あの頃の自分は分からないほど愚かだった。実力もないのに天主の位に就いたとしても、さらに苦しみを背負うだけだったに違いない。そこまで思い至らなかったのだから、愚かさの極みである。
そして、その愚かさゆえに、自分は罪を犯してしまった。
繰り返し過去の自分の所業を悔やむ。
悔やんでも過去の罪は消えないと知りつつ、悔やまずにはいられない。
傷つけてしまったのが自分の一番大切な者なら尚更だ。
「さて。話を蒸し返すようだが、さきほど奨は同じ轍を踏みたくないと言った。だが、分かっているのだろう? 今、零が誰を欲しているのか。あの頃とは状況が異なると思うのだが?」
「そうだな。……アレの気持ちは、手に取るように分かる。だが……」
奨はこの世界に来てから友人となった男の目を覗き込んだ。
昔はこの男を憎んでいた。
その才能に嫉妬していた。
本気で殺意を抱いたこともあった。
それが今では、誠司は最も信頼する友人となっている。運命とは分からないものだ。
「……誠司、私の罪の告白を、聞いてもらえるだろうか?」
今までずっと誰にも話せなかった自分の罪を。
話し終えたとき、誠司は自分を軽蔑するだろうか?
それはないと冷静な自分が判断する。この男なら、全てを聞いたところで動じることなどないのだろう。羨ましいほどの強さだ。
誠司が頷くのを見て、奨は軽く目を閉じた。話し出すためには多少の勇気が必要だった。そして再び目を開けたとき、奨はゆっくりと過去の出来事を語り始めた。





「初めてリインと出会ったのは、まだリインが私の背丈の半分にも満たないほど幼かったときのことだ。リインは父であるアルザールに連れられて、私の居城にやって来た」
もう遥か昔のことなのに今でもはっきりと覚えている。父に手を繋がれ自分の目の前までやってきたリインは、無垢な瞳で自分を見上げていた。青銀の髪に水色の瞳。やけに綺麗な子供だと思った。だがそれ以上の感想は持たなかった。海の底のように静かで変化のない暮らしに紛れ込んだ子供に、自分はほんの少しの関心も払わなかった。
「ラザスダグラ、この子供を育てて貰いたい」
アルザールはにっこり微笑み、予想もしなかった言葉を口にした。父の行動はいつでも唐突で、凡人である自分には理解できないことが多かった。
「……私は子守などしたことはございません」
言外に拒絶の意味を含めて言ったが、やはりアルザールには通じなかった。
父はいつだって、自分の要求を曲げはしない。天界においてこの父に面と向かって反論できるのは、グレス=ファディルぐらいだろう。
「謙遜するな。妹のイーリカはそなたによく懐いているではないか。ラザスダグラ、私の願いを叶えてくれるな?」
「……御意」
面倒だと思ったが、父の命令に結局は逆らえなかった。
こうしてリインは自分の手元に預けられることが決まった。
子供の世話は女官に任せてしまおうかと思ったが、何故か子供は、ちょこちょこと自分の後を追ってきた。リインは大人しい子供で、政務の邪魔をすることもなかったので好きにさせておいた。いつしか時間さえあれば自分はリインの相手をしていた。滅多に笑わない子供だったがたまに見せる笑顔は愛らしかった。
「……あの頃、私がリインに抱いていた感情は、けっして不純なものではなかった。私は父親のようにリインを愛した。食事のマナーも字の書き方も、私が教えた。私はリインの成長していく姿を暖かい気持ちで見守っていた。ちょうど……グレス=ファディルがデュアン=デュランを慈しんで育てたように」
リインが自分の元に来るまでは、自分は生きながら死んでいた。自分が朽ちていなくなるまで、ただ淡々と時が刻むのを眺めていくだけの人生だと思っていた。それなのに……リインがそばにいるだけで、自分は心の安らぎを覚えた。生きていることを初めて美しいことだと感じた。
いつの間にか、自分は手の中の小鳥に夢中になっていた。
……綺麗で優しい小鳥。
……どうかもうしばらく自分の懐に留まっていて欲しい。時が来て、いつか飛び立ってしまうことは知っているけど……。
「私はリインに癒された。私にとって、アレは奇跡のような存在だった……」
親子のような二人の関係が壊れたのは、一通の書簡がきっかけだった。それは……グレス=ファディルを次代の天主と定めるという正式な告知だった。
分かっていたはずだ。自分はグレス=ファディルほどの力はないと。だがそれでも、アルザールの長子に生まれながら跡継ぎに選ばれなかったことに深い絶望を抱いた。生まれたときから自分に失望し続けてきたが、自分はますます、自分が生きている意味が見つけられなくなった。
もし傍らにリインがいなければ、自分はすぐに死に飲み込まれていただろう。
唯一、自分と生とを結びつける存在に、自分は深い執着を抱くようになった。
「そして私はリインを失うことを恐れた。死ぬことよりも、アレがいなくなることのほうが私にとっては恐怖だった」
……綺麗で可愛い私の小鳥。
……お前もいつか、私以外の誰かを選ぶ日が来るのだろう。
……実の父さえも、私を選ばなかったのだから……。
「……あの頃の私は、半ば気が狂っていたのだろう」
だからと言って、許されることではない。自分の犯した罪は。
……綺麗で可愛い私の小鳥。
……いつまでも私の傍から離れないように……。
……その翼を……へし折ってしまえ。
「耳から、離れぬのだよ。いつまでたっても、アレが上げた悲鳴が……」
保護者が突然、加害者に変わった時の恐怖は、どれほどのものだったのだろう? 微塵の警戒心も抱かず傍らにやってきた子供に、自分は襲い掛かったのだ。自分の行動の卑劣さに吐き気がする。
「イヤ! イヤです! イヤぁ……!!」
子供の体を押さえつけ、強引にその体を裂いた。局所から血が流れるのも気にせず、泣き叫ぶ子供の体内に何度も欲望を注ぎ込んだ。
……これで、この子供は私のものだ……。
……私だけのものだ……!
「……そして私は、ゆっくりとリインを壊していった。何度もその体を抱き、お前は私のためだけに存在する奴隷なのだと言い聞かせ……自由を奪い、私の傍に縛り付けた」
それでも、心までは縛れなかった。いつの間にかリインは、心の中に自分以外の誰かを住まわせるようになった。それに気が付いてからも、自分はリインを抱き続けた。その行為が、リインを傷つけるものだと知っていながら……。
「ああ、誠司。そんな顔をしないでくれ。けっしてあなたのせいではない。全ての咎は私にあるのだ。私だけにあるのだ……」
ようやくリインを手放す決心が付いたのは、父にリインの正体を聞かされてからだ。
自分はリインを愛し、強引に体を奪い、心まで奪えないことに苛立っていた。諦めなければいけないのに諦め切れなかった。自分に想いを傾けないリインに、憎しみすら抱いた。閉鎖された部屋で、自分の感情は行き場がなくただその場所で渦巻いていた。リインを殺して自分も死のうかと思った。それで自分の苦しい想いに終止符が打てる。
いつ実行に移そうかと悩んでいたとき、父が自分の城を再び訪れた。
以前はリインを連れて。
今度はリインを奪いに。
「ラザスダグラ、預けた子供を返して貰おうか? 随分と立派に育ったようだな」
自分とリインの関係を知っていながら、父上は美しい顔に満面の笑顔を浮べてそう言った。自分は体の芯が凍る思いがした。
……渡せない。例え父上に逆らうことになっても。
……アレは、私のものだ。私だけのものだ……!
「ふっ……。そんな顔をするな。私は案外、お前には甘い。お前の生真面目さは私の最愛の人にそっくりだからな。……お前から無理やり奪うような真似は止めておこう。私はお前に嫌われたくない」
「……父上……」
無理やり奪うような真似はしないという父の言葉に自分は安堵した。そして、垣間見えた父親としての情に喜びを覚えた。自分にとって父は唯一の存在ではなくなっていたが、敬愛する相手であることは違いなかった。
「……だが、もしお前がアレと無理心中する気なら、私は全力でそれを止めるぞ。さすがに息子二人をいっぺんに失いたくないからな」
「……え?」
……父上は今、なんと言ったのだろうか?
聞き取れていたのに自分はその意味を理解することを一瞬拒否した。
「……息子……?」
「そうだ。リインはお前の弟だ」
「…………!!!!」
息が止まるほどの衝撃だった。
幼い頃から犯し続け、奪い尽くしてきた相手は、自分の弟だったのだ! 自分は血の繋がった弟を、自分の欲望の捌け口にしていたのだ!
自分の罪が何倍にもなってのしかかってくるような気がした。
「すまない、ラザスダグラ。親のエゴだと分かっていても、私はお前を引き止めたかった」
父の静かな声が、ゆっくりと自分の心の中に落ちてきた。リインを殺して自分も死ぬことを断念した瞬間だった。
……父上はなにもかもお見通しなのだ……。
「ある日、リインは私の隙をついて城から逃げ出した。そしてまっすぐ愛する者のもとへ飛び立って行った。連れ戻そうとすれば出来た。だが、私はそうはしなかった。二度と私はリインには会わないつもりだった……」
それなのにどうしても一目会いたくて、自分もまたリインを追って人間界に降りた。会ったら欲しくなった。リインとともに生きたくて、自分は諦めきれないでいる。
「誠司。始めからやり直したいというのは、むしがいい願いなのだろうか……」
「諦めない限り可能性は0ではない」
誠司はさらりと言った。
「……私が弟を強姦するような下劣な男でもか? 私の願いが叶うというのか?」
最大の秘密を誠司にばらし、奨はほっと息を吐いた。友人の目に侮蔑の色が浮かんでいないことに安心した。
「奨、やってしまったことは仕方ない。時間はもとには戻せないのだから。大切なのは、自分が犯した過ちをどうフォローするかなのだ」
「そう……だな。分かってる。分かってはいるのだ……」
零の心が自分に傾きつつあることは知っている。アレを幸せにすることが、自分に出来る最大の償いになるのだろう。
「だが、私には、零を幸せに出来る自信がない」
だから傍にいながら手が出せない。
ここから一歩も進めない。
自分のことなど一番信用できない。
過去の自分の行いが、自分の愚かさを嫌というほど証明しているから。
「奨、お前が零を幸せにする必要などないぞ」
「……誠司?」
「零がお前を幸せにすればいい」
誠司はにっと笑ってソファーから立ち上がり、扉を大きく開けた。
扉の向こうには、呆然とした表情の零が立っていた……。





「あ、あの……俺……。すみません、立ち聞きしてました……」
突然開いたドアに驚きながら、零は慌てて頭を下げた。
誠司にこの時間に来るようにと指定され、「プレゼントをやろう」と言われて社長室にやってきた。
入室する前に人の声がしたのでノックするのを躊躇い、その声が主のものだと気がつきドアの前から離れられないでいた。漏れて聞こえる話は自分のことで……はしたないと思いつつ、つい聞き入ってしまったのだった。
「俺が零をそそのかした」
主に向かって、誠司はきっぱりと言った。
盗聴を勧めたのは自分だとあっさり白状しながら、誠司は悪びれない口調で言った。
「零、悩み事が一つ解決してよかったな」
「所長……悩み事って……?」
「身分違いの恋というのも障害の一つだったのだろう? だがお前もアルザールの息子なのだから、その問題は解消されたわけだ」
「いや、あの、でも……。あらたな問題を抱えこんでしまったような……。だって、兄弟ですよ……?」
衝撃の事実を立ち聞きしてしまい、零は動揺していた。主の……奨の心の内を知ることが出来たのは良かったが、まだかこんなオマケがくっついているとは……。
……ラザスダグラ様と自分が、兄弟……? そんな……まさか……。
「些細(ささい)なことだ」
誠司は言い切った。
……些細、かあ……?
零は頭を抱えた。誠司の図太さが羨ましい。
「零、あまり難しく考えるな。目の前に欲しいものがあるのだから、手を伸ばせばいい」
「……簡単に、言わないでください」
そんな簡単なものではないのだ。長年に渡って出来たしがらみは。
少なくとも自分はそんなに容易に割り切ることなど出来ない。
幼少の頃から身に付けさせられた条件反射。主を前にして、自分の心を解き放つのは難しい。
「零、自分の力を信じろ。戦士としてのお前を、一体誰が鍛えたと思っている?」
「……所長です」
入社してから主に零の指導をしたのは誠司だった。思えば、天界一の剣豪から自分は手ほどきを受けたのだ。どおりで強くなれたわけだ。それでも……主の足元にも及ばないのだが。
「頑張れよ」
誠司は零の頭をぽんと軽く叩くと、部屋を出て行ってしまった。気を利かせて奨と二人きりにしてくれたのだろう。
けれどこの場面で二人きりにされても……困る。
気まずい。
主の本音と、今まで知らなかった自分の……「リィン」の正体と、主と自分が実は兄弟であったことの衝撃と……。いろいろなことがない交ぜになり、零は混乱した。なにを話していいか分からず、沈黙した。奨に手を引かれ、ソファーに座らされてからも顔を上げられなかった。どんな顔をすれば良いか分からなくて。
「誠司には……やられたな。7年たっても進展のない不甲斐ない友人を心配してのことだと思うが」
奨は苦笑していた。零はもう一度すいませんと小さな声で言った。
「お前が謝る必要はない。謝らなければいけないのは私のほうだ。零、全てを知った今、お前は私を許せないだろうな……」
哀しそうな声に、零は顔を上げた。
「……なぜです? なぜ俺があなたを許さないなどと……」
「お前は本当なら、天主の息子としてしかるべき地位を与えられるはずだった。にもかかわらず私はその権利をお前から奪い、私の奴隷に仕立てたのだ。私はお前から尊厳を奪い、時間を盗んだ。殺されても文句を言えぬほどの大罪だ」
「……私にあなたを殺せません。私の気持ちはご存知でしょう?」
零は微かなため息とともに言った。
……自分たちは何を恐れているのだろう?
……何を怖がっているのだろう?
……過去に、戻ることだ。過去の自分に、還ることだ……。
欲しいくせに、触れ合ったら過去に引き戻されそうで、先に進めないでいる。
自分たちは似すぎているのだ。
惹かれ合っているのに全てをゆだねることが怖い……。
「私はあなたを愛しています」
口にするのが怖くてたまらなかった告白。今でも怖い。怖くて声が震える。
「零……」
「でも、恐ろしいのです……」
零の頬を、静かに涙が滑り落ちる。
心の底からわきあがってくる恐怖に、どう立ち向かっていけばよいのだろう。それが自分には分からない。
けれど今まで隠してきた本心を奨に自ら伝えることで、前に進みたいと願った。
「すまない。……私が付けた傷のせいだな」
「違う……。違います。謝らないでください! 私の……弱さのせいなのだから……」
奨の唇が、そっと零の唇に触れる。熱のない口付けが、愛しくて恐ろしい。
今は……キスだけで精一杯だった。
「もう少しだけ……もう少しだけ、待ってください。そうすれば私は……」
誠司は、自分を信じてくれた。
紗那も、誰よりも自分を信頼してくれた。
だから自分も……自分のことを信じてみよう。
「いくらでも待とう。零……私もお前を……愛してる」
もう一度、二人は唇を触れ合わせた。
ゆっくりと止まっていた二人の時間が動き始めたのが分かる。
前に、進もう。
どんなに怖くても、自分は前に進みたい。
今はもう奪って欲しいとは思わない。
この人と対等でありたいと、零は思ったのだった。






 
 
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