【番外編 -零+紗那-】
 
それは憧れに近い恋だった。





その日、雨角零(うずみれい)は困っていた。
つい先日、母親が男と駆け落ちした。
その三ヶ月前に父親は失踪していた。
そして零は一人ぼっちになった。
たった一人で残されたと知ったときも、零は両親に裏切られたとは思わなかった。捨てられることを予想していたわけではないが、なんとなく、納得してしまった。両親が自分を見捨てて行ってしまったその理由を。
異端者。
父にとっても母にとっても、自分は息子ではなく異端の存在だった。
零が両親を遠く感じていたのと同様に、両親にとっても零は遠い相手だった。
両親に限ったことではなく、零は世界から見放された存在だった。何故かは分からないが、どこにいてもなにをしていても、この世界に馴染めない自分を感じていた。
どれほど彷徨(さまよ)ってもどこに行こうとも、自分を受け入れてくれる場所などあるはずがない。まだ十代半ばに満たぬ年齢ではあるが、幾分達観した気持ちで零はそう思っていた。
そして、これからの先行きを考え、零は深々とため息をついた。
「仕事、探さなきゃな……」
両親は零に、何一つとして残さなかった。
お金も住処(すみか)も愛情も。
なんとか今日まで自分の貯金を減らして食いつないできた。しかしそれもそろそろ限界だ。中学生の貯金などたかが知れている。金がなく泊まるところもないから、公園で夜を過ごしているが、連日の野宿に体は悲鳴を上げている。それに今の季節はまだいいが、真冬を越せる自信はない。
いい加減、仕事を見つけなければ。
だが、保証人もいなければ住所不定、とどめにまだ現役の中学生である零を雇ってくれる、物好きな人間など皆無に近い。それが……まっとうな仕事であれば。
「やっぱ、ウリ、かなあ」
零は自分の容貌の商品価値が高いということを知っていた。家出少年と思われたためか、ここ数日間、何度も誘われたからだ。男からも、女からも。一晩十万円でと零の体に値段をつけてきた中年の男もいた。どう見ても普通のサラリーマンのような風体には見えず、やばそうな雰囲気だったので逃げてきてしまったが・・・・・・。
その気になれば、客は簡単に見つかるだろう。最近は女子高生だけでなく男でも『援助交際』の対象になれるのだ。
生きるためには手段を選んでいる場合ではない。それでもいまだ恋愛経験のない零は、自分の肉体を商品として扱うことに躊躇(ためら)いを感じる。
「……せめて最初の客ぐらい、カッコよくてえっちが上手そうな人がいいよな〜。でもカッコよかったら、俺なんか買う必要ないか……」
噴水の傍のベンチに座って延々と悩んでいたら、目の前に男が立った。
気配を察して顔をあげると、零が今まで見たことがないほどの、超がつくイイ男がいた。男は顔に何の感情も浮かべていなかった。ただ淡々とした視線を零にじっと向けていた。
……も、もしや……。俺のこと、買ってくれる気、かなあ? う〜。どうしよう。でもこれ以上のイイ男って、ちょっといねぇだろうなあ。
「あの〜。お兄さん、ひょっとして、俺のこと買ってくれる気ですか??」
思い切って零のほうから声をかけてみた。零の言葉に男はくすりと笑った。すると、ますます男ぶりが上がった。この男ならば、金を払ってでも寝たいという相手は大勢いるに違いない。
……顔に似合わず、とんでもない変態だとか??
零はものすごく心配になった。
……いやいや、まだそういう趣味の人だとは限らないし。
……むしろ、家出少年を保護しようとする善意の人か警察なのかもしれないし。
「売ってくれる気なのか?」
……あぅっ。少年好きの変態さん、でしたか……。そんな風には見えないのにな……。
零はがっかりした。
……けど、贅沢言ってる場合じゃないよな。
「ええーと。俺、お金なくて困ってるんです。だから買ってくれたら嬉しいなーと」
零は顔を引きつらせながら、なんとか笑顔を作った。背に腹は代えられない。昨夜からなにも食べていないから、零は空腹だった。生きるために、金が欲しかった。
「よし、買った。着いて来い」
モラルの欠片もないのか、未成年にしか見えない零を『買う』ことをあっさと決めた男は、零がついてくることを疑わずに歩き出した。
……着いて来いって、ラブホテルかなんかかな? むむー。いよいよか……。
零は憂鬱な気分になりながら、男の後に着いていった。
いくらイイ男だからって、誰が好き好んで男に抱かれたいものか。
本当だったら、初めては好きな相手と経験したかった。今更言っても仕方ないことだけど。
連れて行かれたのは零の予想に反し、ラブホテルなどではなく立派な新築の高層ビル。零はあんぐりと口を開けて、目の前の建物を見上げた。
……ほえええええ。ここ、どこ、だよ……?
零のような中学生が入っていい場所ではない気がする。だが男は気にせず零を手招き、ビルの奥へと入っていく。
受付の綺麗なお姉さんたちは、男と零の姿を見てにっこり微笑み、会釈した。零も慌てて頭を下げる。受付には『ジャスティス』と会社名が書かれていた。どうやらこのビルは、一棟まるまる同じ会社のオフィスらしい。
……ここまで来て、引き返すのもな……。思い切って、着いて行くか……。
どうせ行くところなどないし。今以上の不幸はないような気がするし。それに……受付のお姉さんも、この男の人も、悪い人には見えなかったし。ちゃんとした会社のようだし、社内でなにかおかしな真似をされるとは思えない。
すれ違うたびにこの会社の従業員は、男に頭を下げていく。
もしかしてものすごく偉い人なのだろうか……?
零は駆け足で男に追いつき、並んで長い廊下を歩いた。廊下の突きあたりのエレベーターで、最上階まで一気に上がった。やけに豪奢なエレベーターだった。
「あの……。すごく立派なエレベーターでしたね。高級ホテルとか、高級デパートみたいだ」
「役員用だからな。一応はそれなりの体裁を整えている」
「……役員、用? ってことは、役員なんですか??」
「まあな」
部屋に通された。ドアには社長室と書かれていた。
……ひょっとしてこの人、社長??
零は驚いた。男はどう見ても二十代後半にしか見えない。それなのに、こんな立派なビルを所有する会社の社長だとは。
「おかえりなさい、所長」
「ああ。一人スカウトしてきた。書類を持ってきてくれ」
「はい。かしこまりました」
秘書らしい、綺麗な女性は男に一礼してから退室した。
勧められてソファーに座ったものの、ふかふかしていてかえって落ち着かなかった。
絨毯もふかふかしているし、部屋の窓からの見晴らしはいいし、机は立派だし、部屋は広いし。さすが社長室……。
「コーヒーと紅茶と日本茶、どれがいい?」
「あ。日本茶がいいです」
「了解した」
男は小さく笑った。誰か人に頼むかと思ったが、男は自分でお茶を二杯入れてきた。零はこわごわと男の入れたお茶に手を伸ばした。
……あ。普通のお茶の味だ。意外……。
「お互い、自己紹介がまだだったな」
「は、はいいっ」
内心で失礼なことを考えていたときに話しかけられ、零は動揺した。
「俺は天城誠司。この会社のトップを務めている」
「俺、雨角零って言います。両親が蒸発しちゃったんで、今、一人で生きていくために仕事を探している最中なんですけど……」
聞かれてもいないのに、零は現状を説明してしまった。
生まれて初めて見る豪奢な室内に、自分でも知らず知らずに舞い上がっていたようだ。
「求職中なら、俺はちょうど役に立てると思うぞ。俺の会社は人手不足でな。ちょうど人を探していたところだ」
初めから零の状況には想像がついていたのだろう。
男は驚きもせずに言った。
「……俺、中学生ですけど。保証人もいないし……」
「別にかまわん。保証人になら俺がなるし、実際に働くのは中学を卒業してからでいい」
「……はあ」
「収入は悪くないぞ。その分、危険の伴う仕事だが」
「え。危険? どんな仕事なんですか??」
危険というと、どの程度のものなのだろう。零は心配になった。
上手い話には裏がある、ということだろうか。
「『守り屋』だ。ボディーガードや警備のような仕事だと思ってくれればいい」
「……あの、俺に務まるとは思えないんですけど……」
ボディーガードといえば、筋肉隆々の見るからに頑強な男が、クライアントを守るために命を張る仕事では……。
零は絶対に自分には無理だと思った。非力な中学生に務まるとは到底思えなかった。同級生にはすでに高校生にも見える体躯のいいヤツもいたが、零はむしろ小柄なほうだ。平均身長は超えているものの、貧相な食生活のせいで体重は平均を大きく下回っていた。
「安心しろ。実際に仕事に入るのは研修期間が終わってからだ。まずは試してみて、どうしてもだめだったら辞めればいい。その間、衣食住は保障されるし、悪くない話だと思うが?」
「住み込みなんですか!?」
悪くないどころか、ものすごくいい話だ。話が上手すぎるという点で零は危機感を覚えたが、虎穴に入らずんば虎児を得ずという諺(ことわざ)を思い出し、男の世話になることを決心した。
「よろしくお願いします!」
零は誠司に向かって、深々と頭を下げたのだった。





研修は辛かったが零は途中で挫折したりしなかった。自分の生活がかかっているのだ。逃げ出すわけには行かなかった。
その後の仕事も誠司が言った通りけっして安全ではなかったが、自分には合っていたようだ。誠司が零に適任の仕事を選んで回してくれているおかげでもあったが。
今のところ、この仕事をやめる気はまったくない。
……ま、飢え死にするよりはマシだしね。
誠司と知り合ってから二年経つ。
あのとき誠司と出会えなかったら、自分はいったいどのような運命を辿っていたのだろうか。当初の予定通り自分の体を使ってお金を稼いで……。少なくとも今よりマシな状況でいるとは思えない。間違いなく自分にとって誠司は『恩人』と呼んで差し支(つか)えのない存在なのだろう。
「零、新人の研修を頼んでいいか?」
「はい。構いません」
ある日、所長室に呼ばれた。そして、所長直々に頼まれた。
恩を感じている人間からの頼みだったので、零は快く頷いた。もっとも、恩を感じていなくても仕事は仕事だ。文句を言わず、零は任務を遂行したとは思う。相手と言い争って自分の主張を貫き通すよりは、自分の意見を押し殺してしまうようなところが零にはあった。
「深山には話をしてある。しばらくは新人の研修に専念して欲しい。新人の研修と言っても、お願いするのは一人だけだがな」
深山は零の直属の上司だ。普段は明るく面白い上司なのだが、面では厳しく、頼りがいがある。そして、悪人ではないが腹に一物も二物も持っているような、油断のならない男でもあった。
軽い口調と態度に騙され、痛い目にあってきた「敵」は数知れない・・・・・・。
「一人? マンツーマンで指導ですか?」
しかし入社二年目の自分に一体どんな指導が出来るというのだろうか。零は首を傾(かし)げた。自分の実力は誠司がよく知っているので、自分に出来る仕事だと思ったがゆえの言葉であることは分かっているが。誠司は人の実力を見誤(みあやま)ったりしない。その点でも零は誠司を信頼していた。
「早速、今日からお願いしたいのだが」
「分かりました」
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「所長、紗那様を連れてきました」
「ああ。入れ」
誠司の秘書に連れられてやって来たのは、自分と同じぐらいか年下ぐらいの少年だった。その風貌から一目で誠司の血縁者だということが分かった。少年は誠司をそのまま幼くしたような顔をしていた。成長したら、おそらく誠司そっくりになるだろう。
……所長とこいつの関係ってなんなんだ? 年の離れた兄弟か……。まさか、親子、とか?? いや、まさかな……。所長がフツーに結婚生活を送っているなんて想像できない……。
しかしそのまさかだった。
「オヤジ、俺は別に教官なんて欲しくないぜ。俺の実力はオヤジがよく知ってるだろ」
……オヤジっ!? 誠司さんの息子なのか……。
「まあ、そう言うな。確かにお前なら実戦に出ても見劣りしないだろうな。しかしそれは体術についてだけだ。他はこの零について学べ」
「ふぅん? なに、こいつ。俺の教官になれるほどの実力あんの? ……弱くはなさそうだけどな」
誠司の息子は莫迦(ばか)にしたような顔で笑った。初対面の人間からぶつけられる攻撃的な言葉と態度に零は面食らう。
「まあいいや。当分はオヤジの顔を立ててあんたに従ってやるよ。俺は天城紗那。あんた、名前は?」
「雨角零」
「零、年はいくつ? ずいぶんと若いな」
いきなり呼び捨てで名を呼ばれて驚いたが、不快ではなかった。
「16」
「へぇ、俺よりいっこ上か。よろしくな」
からりと笑って、紗那は零に向かって右手を差し出してきた。拒む理由はなかったので、零は紗那の手を握り返した。思いがけず柔らかな感触に、零はどきりとした。
これが零と紗那の最初のコンタクトだった。





紗那の実力はすぐに分かった。
たった15歳の少年だとは思えないほどの高い技術を紗那はすでに取得していた。幼いころから誠司の手ほどきを受けてきただけのことはある。空手や柔道などの体術では、零は紗那にまったく歯が立たなかった。本人があれほど自信満々だった理由を零は思い知った。
だが、誠司が言っていたとおり、他については零に一日(いちじつ)の長(ちょう)があった。この仕事のために覚えなければならないことは山ほどある。コンピューターの使い方、薬物についての一通りの知識、射撃の方法やナイフの使い方。
零が紗那の実力を認めると同時に、紗那もまた、零の実力を認めた。そして二人は自他共に認める親友同士の間柄になった。
紗那の研修が終わった後、零は紗那と組んで任務に就くことが多くなった。その理由もなんとなく零には分かる気がした。
紗那が、強すぎるのだ。周囲から強烈な妬(ねた)み嫉(そね)みを受けてしまうほどに。
自分も妬みをぶつけられたことがないわけではない。入社してから二年しか経っていない自分が、誠司に目をかけてもらっている。
そのことをやっかまれて嫌がらせをされたこともある。しかし、紗那が受けている嫌がらせに比べれば、ささやかな物だったのだと今までを振り返って零は思った。
自分に向けられる悪意ある視線を、紗那は涼しい顔でさらりとかわしていた。
「慣れているから」
と、なんでもないことのように紗那は言った。紗那は零以上に周囲の人間に無頓着だった。無関心といったほうが正しいかもしれない。
紗那は他の人間には冷ややかな顔しか見せなかったが、零と誠司に対してだけは例外だった。零が紗那と組まされるわけは、紗那が零を信用しているからに他ならない。
総合的な実力からいえば紗那の方が零よりもはるかに上で、とても釣り合っているとはいえない。零より実力のあるものなら組織の中に大勢いる。
だが、紗那が認めている人間は誠司を抜かせば自分だけなのだ。そのことが零には誇らしく感じられた。滅多に人になつかない優美な獣が、自分に対してだけはくつろいだ表情を見せる。零は生まれて初めての幸福感を覚えていた。
……ずっと一緒にいたい。
行き過ぎた友情だと知っていても、零は自分の気持ちを止めることが出来ないでいた。
紗那は何者にも縛られない、自由な存在だった。零は紗那という存在そのものに憧れた。どんなときにも自分の意思を貫き通す強さを持った紗那が、零は愛しいと思った。
誰に何を言われても紗那は自分がこうと思った意志を曲げない。
唯一の例外を除いては。
不思議なことに、紗那は誠司に対してだけは絶対服従だった。その理由を問いただしたことがある。
「あの人は俺のすべてだから」
紗那はちょっと照れたような顔で笑いながら言った。
このとき自分は、殺したいほど誠司を憎んだ。自分の恩人であるはずの誠司に、激しい嫉妬を抱いた。自分以外の人間が紗那の心の多くを占めているということに、自分は耐えられなかったのだ。
……この想いは友情なんかじゃない。俺はこいつに惚れているんだ。
男同士だし、自分の想いを受け入れてもらえる確立はあまり高くないだろう。しかし自分が、紗那の隣に並べる人間になれることを望まずにはいられない。
……俺は紗那を愛してる。
その想いは日に日に強くなっていった。その数ヵ月後、実は紗那が男ではなく女であることが発覚したが、零にとってはそれはあまり深い意味を持たなかった。
だが、街に二人で出ると必ず逆ナンされて鬱陶しかったので、「もっと女らしい格好をしたら…」と紗那に言ったら、機嫌を損ねてしまったらしく、力いっぱい殴られた。
出会ってから数年後、紗那は立派な八方美人の猫っ被りに成長していた。自分の持つ棘の隠し方を、どうやら覚えたらしい。
「どーでもいい人間からどーでもいい悪意を向けられるのも面倒だからな」
と、ふてぶてしく笑う紗那は、やはり自分にとってはこれ以上はないほどの魅力的な女だった。
紗那は明るく潔く、しっかりしていて面倒見もいい男らしい人間だと周囲に思われている。それもあながち間違いではないが、自分に対してだけは加えて意地の悪い面を見せる。これは誠司でさえ知らない顔だ。ファザコンの紗那は、誠司の前では完全ないい子ちゃんの仮面を被る。本人は意識していなくても、飼い主に忠実な犬そのものである。
紗那から意地悪をされて喜んでいる自分はマゾかも知れないと思うが、これも紗那が自分に気を許している証拠だと思えば腹も立たない。
自分は紗那を恋人にしたくて、紗那は自分を親友だと思っている。二人の間にニーズの違いはあるが、自分はそれなりに幸せなんじゃないかと零は思う。思う存分抱きしめることを許可されていないのは残念だが、以前ほど飢(かつ)えた気持ちはない。
なぜなら、一番の望みはすでに叶っているからだ。
……ずっと傍にいたい一緒にいたい。紗那の隣を歩きたい。
今のところその願いは、叶えられ続けている。
今はそれで満足していようと、零は思った。




それから一年後。
紗那は父親の恋人でもある、一人の少年に恋をする。
そして零はしばらくの間、激しい嫉妬に悩まされることになるのだった・・・・・・。






 
 
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