「バカにして、バカにして! ふざけるんじゃないわよ!」
バッグから小切手を取り出し引き裂こうとしたが、穂高美登里(ほだかみどり)はぴたりと指を止めた。小切手の金額は、美登里の年収の軽く十倍以上はある。紙くずにしてしまうのには、あまりにも惜しかった。 それに、お金はこれからいくらでも入用になる。もし自分の中に宿った命を育んでいくとしたら。 「でも、そんなの無理。育てていく自信なんてない。それに……」 ……それに、別に、好きな男の子供じゃないし。 美登里は小切手をくれた男の愛人だった。男は美登里の若さと美貌に惹かれ、美登里は男の財力が好きだった。男自身に惚れていたわけではない。欲望にまみれた、恋とは到底呼べない関係だった。 男との付き合いは、もう五年以上になる。世間的には不道徳な関係ではあるが、美登里にとって男との時間はすでに日常の一部で、別れの日が来ることなど考えていなかった。 だが、男は違った。男にとって美登里はいくらでも取替えのきく相手だった。 美登里が妊娠したことを告げると、男は手切れ金とともにあっさりと別れを口にした。 「いいわ、別れましょう。あなたとの関係も、いいかげん飽きたしね。潮時だわ」 男から別れを切り出されたことにショックを受けながら、美登里はさばさばとした態度を作って言った。男の前で弱みを見せたくない。それは美登里のプライドだった。 どうやら男にはすでに、別の女がいるようだった。 おそらく美登里より六歳年下のあの女・・・・・・。 男は美登里が勤める会社の重役で、男の新しい愛人は、自分が仕事を教えている後輩だった。大学を卒業したばかりの後輩は輝くばかりの若さを持っていて、美登里は女としての敗北を感じざるをえなかった。 「……こんなことで泣いてたまるもんですか」 美登里は零れそうになる涙をぐっと堪えた。ここで泣いたら自分が惨めだ。 子供は、やはり産もう。 男との五年間をなんらかの形で残したかった。 自分と男との間には利害関係しかないと思っていた。 けれど、認めるのはシャクだけど、自分はあの男のことを好きだったのかも知れない。 男と別れた今、こんなにも胸が痛い……。 「初めまして。天城誠司と申します。少々お時間を頂けますでしょうか?」 突然の訪問者に美登里は驚いた。 ドアを開けたらそこにいたのは、あまりにも整った顔をした少年だったから。 そして、少年の名前を聞いて、美登里はさらに驚いた。 天城武(あまぎたけし)。それが、美登里が別れたばかりの男の名だった。 ……ふぅん。この子、あの人の息子ってわけね。そういえば高校三年生になる息子がいるって聞いたことがあるような気がする……。 姿かたちも振舞いも、男に似ているところは少年にはなかった。 バランスの良い長身に、女なら誰でも見惚れるような美少年。年齢以上に落ち着いた空気をまとい、少年は美登里を静かな目で見つめていた。 父親の不貞を知って、文句を言いにきた・・・・・・というわけでもなさそうだ。 「父親の元愛人になんの用かしら? いいわ、入りなさい。お茶の一杯ぐらいはご馳走してあげる」 美登里は軽く肩をすくめて、少年を部屋の中へと導いた。少々散らかっているが構わないだろう。なんのつもりで押しかけてきたか知らないが、男と自分は、今は無関係だ。なにを言われようが、自分にとってはどうでも良いことだ。 それに、いたたまれず会社を辞めてしまったため、ここ最近は一日中家にいることが多く暇をもてあましていたのだ。類まれな美少年と過ごすひと時は、それなりに暇つぶしになってくれるだろう。 少年をソファーに座らせ、美登里はお茶の用意をした。 「あの人は紅茶のほうが好きだったけど、あなたはコーヒーでいいかしら?」 「はい。ありがとうございます」 良家の子息らしい行儀のいい態度で少年はコーヒーを受け取った。 「……おいしいですね」 コーヒーを一口飲んでから、少年は静かに呟いた。お世辞には聞こえなかった。 自慢のコーヒーを褒められて、美登里は嬉しくなった。一時はコーヒーを豆から挽いて入れていたほど、コーヒーにはこだわりがあった。男から貰った手切れ金で、コーヒーショップでも開こうかと思っているほどだった。 「でしょ? コーヒーの入れ方には、ちょっと自信があるの」 コーヒーの香りと味を楽しみながら、美登里は向かいに座った少年の姿をじっくり観察した。 本当に、ずいぶんと見目形の整った少年だ。身長はきっと180cm以上あるに違いない。男から、少年がレベルの高い進学校に通っていると聞かされたことがある。加えて、柔道か空手かどちらか忘れたが、段を持っているのだとか。 文武両道。眉目秀麗。 女にさぞかしもてるだろう。 少年より遥かに年上の自分ですら、少年と密室に二人きりでいると考えただけで、女としての血が騒ぐ。 「今日ご自宅に伺ったのは、あなたにお願いがあるからです」 声も……色気があって素敵な声だ。この低い声で、耳元で愛を囁かれたら、どんな女でもイチコロだろう。まるで、女を魅惑する魔力を持った声のようだ。 「お願い? パパと別れてとでも言うつもり? お生憎さま。もう彼とはとっくに切れてるわ」 心のざわめきを押し隠すように、美登里はきつい口調で言った。 男なんてもうこりごりだと思っていたはずなのに、こんな年下の少年にときめきを覚えるなんて、どうかしている。 「知っています」 美登里の言葉は、少年になんの影響も及ぼさなかったようだ。 「あらそう。じゃあ、何かしら?」 「あなた、父の子供を妊娠していますね」 少年が淡々としたようすを崩さず、自分の弟か妹が美登里の体内にいることを口にしたことに、美登里は驚かずにいられなかった。 ・・・・・・私と、私の子供に、彼はなにを求めているというのだろう。堕胎しろという気なら、絶対に言うことなんて聞くものか。 警戒し、美登里は少年を睨んだ。 「はん。あの人が喋ったの? とんでもなくデリカシーのないお喋りな男ね。別れて正解だったわ」 美登里は乱暴にコーヒーカップを置いた。 自分の息子に、自分の愛人の妊娠を喋ったのだろうか? だとしたら、あまりにも自分を軽んじているのではないか? 男に対する怒りが涌いた。 「いえ。父はあなたの存在を、私にも母にも綺麗に隠していました。私が知ったのは別口ですが、それは今はどうでもいいことです。単刀直入に申し上げましょう。私の弟か妹を産んでください」 少年に言われるまでもなく、美登里は子供を産む気だった。 だが、不思議だ。 少年の立場から考えて、美登里に中絶を迫ることは十分あり得る。自分の父親が母親以外の女性に子供を産ませることに、嫌悪感を抱くのは当たり前のことだ。 しかし少年は、美登里に子供を産んで欲しいという。 一体何を考えているのだろう。 美登里は少年に訝しげな視線を向けた。 「俺にできることならなんでもします。あなたのお腹の子供は、俺にとって大切な相手です。どうかお願いします」 少年は深々と頭を下げた。 ソファーでなく、畳に座っていたのなら、少年はためらいもせず土下座しただろう。 これほど熱心に頼まれるとは、美登里は不思議でたまらなかった。 「なんでも、ねぇ。……じゃあ、お腹の子の父親になってくれない? 女手一つで育てるのも大変だしね」 それは思い付きだったが、口に出してみて名案だと思った。 自分の息子と元愛人が結婚したら、あの男はさぞかし驚き慌てるだろう。 いい気味だ。 簡単に自分を捨てた男を、美登里は恨んでいた。 「……それは、あなたと結婚しろということですか?」 「ええ、そうよ。イヤなら別にいいのよ? 明日にも、中絶手術の手続きをしてくるわ」 少年に断られたからといって中絶する気など微塵もなかったが、美登里はさらりと嘘をついた。美登里は自分が少年に八つ当たりをしていることに気が付いていた。大人気ないと思いつつ、少年の困惑した姿を見るのがおかしくて仕方なかった。 少年はしばらく難しい顔で考えていたが、やがて毅然と顔を上げた。 決意をした表情だった。 「父親にはなれても、俺はあなたの『夫』にはなれない。それでも構わなければ結婚しましょう」 「ええ、いいわ」 美登里は自信満々に笑いながら頷いた。 少年よりも一回りは年上だが、美登里はまだ二十代半ばだ。まだ自分の容貌にも体にも自信がある。けして自惚れではなく、美登里の容姿が平凡であったなら、あの男は美登里を愛人にはしなかっただろう。 今は、少年らしい潔癖さで美登里の『夫』にはなれないと言っていても、一つ屋根の下で暮らしていれば、そのうち男女の関係になれるに違いない。男性経験が乏しくない美登里は、少年ぐらいの年齢の性欲がどれほどのものなのか、よく分かっていた。 清潔そうな目をした少年が、どんなふうに女を抱くのか美登里は興味があった。 美登里はすっかりこの綺麗な少年が気に入っていた。 美登里と誠司はおよそ十年間、法律上は夫婦として同じ家で暮らした。 しかし誠司は、ただの一度も美登里を抱かなかった。いつの間にか誠司に惹かれていた美登里は苦しんだ。女として愛されたいと願ったが、どんなに泣いてすがっても、誠司が美登里の望みを叶えることはなかった。 もし自分が誠司の父親の愛人でなかったら、誠司は自分を抱いてくれただろうか? 答えは否だ。 誠司が美登里を抱かないのは、誠司が美登里のことを愛していないからだ。 「私、この家を出て行くわ。もう疲れちゃった……」 「そうか」 誠司は引きとめもしなかった。分かっていたが、悲しかった。 「ねぇ、お願い。最後にキスして。抱いて欲しいなんてもう言わないから……キスぐらいはいいでしょ?」 「…………」 誠司は困った顔で沈黙した。 「キスもダメ? ……お願い。一度だけでいいから……」 「別に構わないが……」 「何?」 「実はいままで、キスをしたことがない」 美登里は誠司の言葉に盛大に噴出した。こんなに笑うのは久しぶりのことだ。 「やだ。あなたったら、今、いくつよ? ほんとにおかしな人ねぇ。あれだけモテるのに、キスすらしたことなかったなんて……」 笑いながら、美登里は内心喜んだ。自分以外の人間にも、等しく関心がなかったのならまだ許せる。 美登里の産んだ三つ子の兄弟に、誠司は父親としての愛情を惜しみなく注いだ。しかし美登里が知る限り、誠司が男として誰かを愛することはなかった。 ゆっくりと誠司の顔が近づいてくる。 美登里は静かに目を閉じた。 触れるだけの口付け。 一瞬だけ、美登里は誠司の『妻』だった。 ……もうこれで十分……。 本当は、誠司のすべてが欲しかったけれど。 でも、もういい。 誠司は自分に与えられるものはすべて美登里に与えてくれた。 男から誠司が引き継いだ財産は、全て美登里に慰謝料として渡された。愛は貰えなかったがこればかりは仕方ない。誠司は誠司なりに、自分のことを大切にしてくれていた。 誠実で優しい男だった。 美登里が惚れるのも無理がないくらい、いい男だった。 「さようなら、誠司」 美登里は微笑みながら、涙を零した。 次はもっと、幸せな恋をしよう。 自分を好きになってくれる人を好きになろう。 誠司以上に好きになれる人間がいるかどうか、今はまだわからないけれど……。 完 |